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活動家時代の記録 ♯16 
高校生エッセイコンテスト
2003.8.10
2003年8月10日、私がマニラに滞在していたとき、国際協力事業団(現・国際協力機構:JICA)が例年主催している「高校生エッセイコンテスト」の受賞者の方々がフィリピンにいらっしゃった。

このエッセイコンテストは長く続いているようで、私は1997年のエッセイコンテストで賞をいただき、フィリピンに来させていただいた。当時私は高校2年生で、国内のとあるNGOの活動に打ち込み、アクティビスト全盛期を迎えていた。そのときの体験が、「フィリピン」という国に興味を抱くきっかけになったと同時に、現在の自分の研究テーマへの動機ともなったのは事実である。
その年は、8月の終わりに表彰式があり、続いて、国際協力の必要性、ODAのしくみやJICAの仕事についての研修を受けた。写真を見てそこから感じたことを話し合う「ピクチャー・リーディング」や簡単なゲームなど、開発教育の手法を取り入れたワークショップもおこなわれた。日本に来られている研修生の方々との交流会もあった。2日間の研修のあと、「特選」の4人は1週間モロッコへ、「準特選」の私たち4人は1週間フィリピンへ、「佳作」の8人は3日間沖縄へ、研修旅行に連れて行っていただいた。例年、特選はアフリカまたは中南米、準特選はアジア、佳作は沖縄と決められているようであった。
フィリピンでは、NHA(国家住宅庁)に派遣されていた専門家の方のご案内で、スモーキーマウンテン跡地、マハリカビレッジなどにおける中層住宅の見学、日本でJICAの研修生だった方々のお家でのホームステイ、保健婦さんや、モンテンルパで柔道教室をしておられた青年海外協力隊の方の訪問、など、1週間があっという間に過ぎてしまった。

それ以来、エッセイコンテスト受賞者によるフィリピンへの研修はなかったように思う。それが、今年は6年ぶりにフィリピンに来られるとのこと。もともとこの研修旅行は3月に中国・フィリピンにて行われる予定だったのだが、SARSの影響で延期となり、中国はやめてフィリピンだけに決定されたのだの記事を、たまたま7月28日の朝、その前日にマカティで起こった事件に関する記述を読みたいと思って開いた「まにら新聞(※)」で拝見した。そしてさらにたまたま、フィリピン大学の社会福祉地域開発学部のマスターを卒業して現在JICAのマニラ事務所で働いておられる知人の方にその晩お会いし、「機会があれば彼らの滞在中にお会いしてみたい」という私の希望をきいていただいて、後日、JICAの担当者の方から、彼らとの夕食にお招きいただけるというご連絡をいただいたのである。

さて、マカティ某所にて、研修旅行の高校生の皆さんにお会いした。なんと、13人ものグループだったので驚いた。高校生とばかり思っていたら、中学生エッセイコンテストの受賞者もご一緒とのこと。3月の予定が延期されたことで、すでに大学生になっておられる方もおられた。
彼女たちと時間を過ごさせていただいたのだけれど、まず、久しぶりに日本の高校生を見たためか、マナーの悪さと言葉遣いの悪さにびっくりしてしまった。テーブルマナー(といってもお料理は中華)を知らないのはしかたがないとしても、JICAのスタッフの方やツアー添乗員の方が同席しておられるのにわれ先にと食事を取り、同席しておられた私よりもっと年上の青年海外協力隊の方々にも敬語を使わず、「食う(食べる)」「うまい(おいしい)」「これ、まずくねぇ?」など、おおよそ10代の女の子とは思えない言葉を連発。いえ、女の子だからといって差別する気はないのだけれど、少なくとも、言葉遣いは大切でしょう。ましてや年上の人がいる前で気を遣うことができないのは・・・。
全員がそうだったとは言わない。中には落ち着いた人もいたものである。が、やはり13人もいると、誰かが制するわけでもないし、添乗スタッフもいちいち注意をしている場合ではないのだろうな、逆に逆恨みされるかもしれないし、と思った。

彼女たちを見ていて、ふと、自分が6年前に研修旅行に連れてきてもらったときのことを思い出した。ホテルに着いた日、随行してくださったJICAスタッフの方がフロントでチェックインをしている間、私たち4人のなかの一人が、ロビーでしゃがんで待っていた。そのホテルは、マンダリン・オリエンタル・ホテル。高校生の研修でそのような高級ホテルが使われたことの是非はさておき、戻ってきたそのスタッフの方は、彼女に「このような公共の場でそんなふうにしゃがんではいけない。」と言った。彼女は「どうしてですか」と反問した。スタッフの方は、どこにでも座り込むのはいまの若い日本の人の悪い癖であること、欧米ではそうした日本人が恥ずかしいマナーをさらしていること、少なくともここはホテルなのだから、その程度のマナーはわきまえるべきであること、などをお話しになった。彼女はなおも不だったようで、部屋に戻ってから、私たち残りの3人に自分の言い分を訴えた。さきほどの件だけではなく、日本での研修中から、そのスタッフにというよりもこの研修自体に不満があるようであった。
私たち4人は全員女性であり、スタッフは男性だった。いろいろと話し合った私たちは、最終的に、スタッフにそれを伝えるべきだという結論に達した。そしてその日の夕食時に、さきほど注意を受けた彼女は、自分の言い分をスタッフにぶつけはじめた。もちろん敬語などではなく、今思えば、先述の女子高生たちといい勝負ともいえるような言葉遣いで。ただ、事前に私たち4人のなかで話し合っていたので、本人もそれほど感情的にはなっていなかった。スタッフは、今回の研修に関する彼女の批判を認め、残された日程はできるだけいまの意見に沿えるようなものにする、意見を言ってくれるのはよいことだ、とおっしゃった。その上で、このようなお話をされた。
「けれども、その問題と、公共の場でのマナーとは話が別である、あなたたちも、いみじくも国際協力に関するすばらしい作文を書いてここに来ているのなら、他人の目やマナーに敏感である必要がある。女性だから、という気はないけれど、たとえば僕が学生時代にアルバイトをしていたところ(飲食店だったかホテルだったか、もう忘れてしまったが)では、女子トイレの清掃のほうが大変だった。女子トイレの洗面所には髪の毛がいっぱい落ちている。自分が汚したなら始末していけばいいのに、皆がそうするからますます汚くなるのだろう。あなたたたちにはそんな女性にはなってほしくない。」
その話は、とても心に残っている。当時そのスタッフにはまだ小さな娘さんがいらっしゃるという話だったから、今頃はマナーのいいお嬢さんになっておられると思う。…って、23歳の私が言うことでもないけれど。

けれどその日以降、そのスタッフはとても話しやすくなった。当時すでに青年海外協力隊というものに疑問をもっていた私も、協力隊の方を訪問したその日の帰りの車の中で彼に、「さっきあの方は〜とおっしゃったけど、それって自己満足じゃないですか」などと、感じていた疑問を遠慮もなく口にしたことがあった。今思えばまったく、若気の至りとは恐ろしいものだ。
あのとき、一緒に研修に行った彼女たちとは、いまも連絡を取りあっているし、同窓会と称して名古屋に遊びに行ったこともある。。スタッフに文句を言ってかかった彼女は、近く結婚するらしい。まだあのときのことを覚えているだろうか。

まったく違った例をもうひとつ。
私が中高生時代に参加していたNGOは青少年組織をもっていて、私はそちらのほうに属していた。けれども、東京での国内会議、あるいは途上国での国際会議、それから、いわゆるスタディツアーなどでは、母体組織のほうの大人の方と、学生が主体であるその青少年組織のメンバーが一堂に会したり、ツアーとして同時に行動したりすることが何度もあった。すると、青少年組織のなかに「場をわきまえたメンバー」たち(多くは男性)がいて、メンバーの行動にチェックを入れるのだ。たとえばビュッフェ形式のレストランや食堂で食事をとるときには「若者はあと!理事やスタッフの方々が先にとって席に着かれるまで待ちなさい!」と耳打ちして回ったり、大勢でバスに乗る場合には大人と若者の席をそれとなく前と後ろで分けて若者のおしゃべり声が耳障りにならないようにしたり、「そこ!騒ぐな!」と注意したり、はたまた、座りにくい補助席に自分たちが座るようにアレンジしたり…。夜の見回りをし、遅くまで起きて騒ぐメンバーに「俺たちの目的は会議であって、騒ぐことじゃない。翌朝の会議に支障をきたしたらどうするのか」と注意を与えるのも、掃除や忘れ物のチェックをするのも彼らの仕事。年上のメンバーにも堂々と注意をおこなう。彼らは「ロジスティックス」と呼ばれていたが、その活躍ぶりは、生活委員会か生徒指導委員会のようであった。単に会議やツアーの裏の仕事をこなすだけでもなかなかなのに、そのような「青少年メンバーに配慮を促す役割」をも担っていたのだから、まったくたいしたものだと思う。さらに、彼らは大人からのメッセージを青少年たちに伝えるパイプの役割も担っていた。大人たちが彼らを信頼して、「○○に、〜の件で注意を促してくれる?」と頼む現場を私は何度も目撃した。この団体の規律はほとんど彼らによって守られているのではないか、と私はつくづく感心した。が、所詮は上下関係も年齢差もさほどないような同じメンバーである。もともと普段は友達関係なのだから、別段恐れる対象でもない。ただ、「配慮のできる人たち」だった。だから、注意を受けた人たちも決して反感も抱かず、むしろ羞恥を覚え、次回には彼らが「注意役」に回るのである。そうすることで、それが、「分別のない子供」から「配慮ある大人」になれるような気がして。かくいう私も、会議に参加する回数が多かったため、ずいぶんと「生活委員会」から注意を受けたものだが、後半はむしろ、彼らの手先となって、または彼らが声を出す前に先回ってほかの参加者への注意を喚起し、せっせと「生活委員会」の下請けを担おうとしたものである。

さて、「生活委員会」のほとんどは、東京周辺のメンバーたちだった。彼らがその役割を担うことができたのは、彼らが日常的にその母体組織の事務所で活動をし、スタッフやボランティアの大人たちと関わり、支援を受け、アドバイスを受け、逆に母体組織の作業を手伝い、日常的に対話をし、食事をしたり遊びに行ったりして、叱られたり励まされたり意見をぶつけたりしていたことで、そのような配慮と、それを他のメンバーにも強要するだけの自信が培われていたからだと思う。

多くのスタディツアーが、高額の参加費と引き換えにスタッフに「お膳立て」された旅行になってしまっていることを考えるとき、あの団体の行動は、なかなか独特のものだったなあと思う。なにしろ、スタッフから叱られるのではなく、自分たちと同じ年頃のメンバーから叱られるのだから、注意を受けた側は自分たちの幼稚さに赤面し、「面目ない」「無神経で申し訳ない」という気分になってしまう。スタディツアーがNGOの貴重な収入源となり、参加者が「顧客」となってしまうような現状にあっては、たとえば随行スタッフが不勉強の参加者に「もっと勉強してから来てください」と言ったり、団体行動を乱すような参加者を咎めたりすることはおろか、一部の参加者の発言を問題として話し合うことすら稀だろう。あの組織の自律性は、母体組織が青少年組織を内包し、しかもその青少年組織の中には日常的に「養成」された(意図されていたのかどうかはべつとして)メンバーが同じメンバーの行動を規律する、というあの組織の特殊性があればこそ可能となったのだと思う。いまではすっかりメンバーも代替わりし、方針もだいぶ変わったようなので、あの強権的な「生活委員会」も姿を消しているかもしれないけれども、いま思っても、あの組織の自律性は尊敬に値する。

※まにら新聞は、在フィリピン邦人を対象とした日刊紙。詳細はhttp://www.manila-shimbun.com/index.htmlへ。


        
 

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