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Fence-sitting


開発と外部者 ♯3 
NGOの操作(manipulation)を考える ―再定住地の訪問から―
2003.12.11
2003年11月のある日、COM(Community Organizers Multiversity)のオーガナイザーのBから、
「12月17日の下院議会でプレゼンテーションをすることになった。ついては、いろいろな写真が必要なので、君のデジカメを貸してほしい。でも操作がわからないので、できればカメラを持って付き合ってくるとなお嬉しい」
というテキスト・メッセージが私の携帯電話に入った。COMにはデジカメがないのだ。

12月11日、Bたちと一緒にバンに乗って向かった先はカビテ州ダスマリニャスとモリオネス。いずれも、マニラ首都圏のパシグ川沿いのスクワッターエリアを立ち退きになった人々のRelocation Site(移転先)であった。
最初にうかがったのは、カシグラハン・ビレッジ3(KV3)と呼ばれている場所であった。立ち退きとなったスクワッターの再定住地と定められたカシグラハン・ビレッジ(KV)は、リサール州、カビテ州などマニラ首都圏外に4つある。カシグラハンとはタガログ語で「幸せ」という意味。

同行してくださったDAMPAというケソン市の都市貧困地区の住民組織連合の方の道案内でKV3の住民組織リーダーの女性、Vさんのおうちを訪問。ご近所の方も呼んできていただいて、家の前の道でひととおりの自己紹介をして、今日ここへ来た目的を話したあと、Bは連れてきていた7歳違いの甥(Bは13人兄弟の下から二番目なのでこのようなことが起こる)に、事務所から持参したビデオカメラのセットを命じた。移転者の「証言」を撮るのだという。
ビデオカメラはまず、Vさんに向けられた。
「では、V夫人、まずご自分の名前と、いつここに移ってきたのかを話してください。」
とBが指示する。
「えぇ…私はV、1992年…だったか93年だったか…に、ここにきました。以前はマンダルーヨン市に住んでいました。パシグ川沿いでした。SM(ショッピングモール)サンタメサ店の近くです。立ち退きがあって、ここに移ってきた当初は、土地しかありませんでした。住居は自分たちでお金を借りて建てました。政府は土地に関するサポートはしてくれましたが、家屋はサポートしてくれなかったのです。それに、ここはマニラに遠すぎて、生計の手段がありませんでした。マニラはよかった。ベンダー(物売り)でも洗濯でもして、とりあえず食べる分は稼ぐことができました。ここでは、1日3食を食べられない人がたくさんいるんです。雨季はもっと深刻です。ここは土地が低いので、このへんまで(腰の辺り)すぐに水浸しになんです。あっちの分譲地は土地が高いので洪水は起こりません。水はこっちに流れます。私たちの家は1階建てですから、避難する場所もありません。」
と、Vさんの話は続く。
「OK、Vおばさん。では、現在の生活はどうですか?」とB。
「いまも水道も電気もないんですよ。水はあそこの給水タンクに汲みに行くんです。それも、朝と夕方の数時間だけ。電気はないので子供は勉強できません。…」
と、Vさんが話していると、同じ家に住んでいる孫たちが「おばあちゃーん」と言いながら彼女の首に絡みついたり、膝に乗ったりする。
「ありがとうございます、おばさん。では、今度はお孫さんに。ちょい、ボク。こことマニラとどっちが好き?」
とBが聞き、カメラはお孫さんの一人に向けられる。彼は「えぇー」と躊躇し、カメラから隠れようとする。
「あんた、ほら、マニラとこことどっちが好きかだって。どっちがいいの?」
とVさん。「マニラ…だってSMがあるもん」と彼。
「学校はどうかな?」とBが尋ねたが、彼は「えー…」とまたもじもじして彼は結局家の中に隠れてしまてしまった。
「ここから学校はとても遠いんです。歩いては行けません。トライシクルの相乗りで往復9ペソ、相乗りの相手がいないともっと高くなってしまいます。毎日その交通費を払うのが大変で、学校にやることができない家庭もあります。学校へのお弁当を持たせてやることができないので学校にやれない家庭もあります」
近くにいたご近所の方が代わりに答える。
「たくさんの人が、マニラに戻っていきました。食べていけないからです。私の夫は、マニラで仕事を持っていました。こんなところからどうやって毎日マニラまで通勤できますか? 彼はいま、マニラの知人の家に住んでいます。週末しか帰ってきません。」

インタビューはいったん終わり、今度は、しばらく近辺を歩いたり、家の中を見せていただいたりしながら、
「saging、そこを撮るぞ。その、人が出て行った後で空き家になっている家。あと、あの水タンクも。」というBの指示のもと、以下のような映像をカメラとビデオにおさめた。
・水がないので、洗濯や皿洗い、掃除、水浴び用の水を給水タンクから汲んできて裏庭のバケツやペットボトルに貯めてある様子
・電気がない暗い家の中
・マニラに戻っていった人たちの捨てていった朽ちた空き家
・すぐ近くにある分譲地(無料の再定住地ではなく分譲)の対照的な美しさ
・はるか遠くに見える学校


次に訪れたのは、モリオネスの再定住地。ここはKVではないが、1992年に第一期目の立ち退きを余儀なくされた人々の移転先であった。特徴は、スクワッター地区から移転してきた人々と、それ以前からここに住んでいた人々の家が混在していることである。もともとここに住んでいた人々というのは比較的裕福で、カビテ州のこの近辺のあちこちに見られる「サブディビジョン(高級〜中級住宅街)」という感覚で居住してきただけに、家は立派である。それゆえに、移転者たちの家のみすぼらしさがいっそう際立ってしまうのだ。ここもKV3と同様、移転してきたときには土地しか与えられず、自分たちで借金をして家を建てたのだという。
ここの住民組織の会長だった男性は最近亡くなってしまい、その奥さんからお話を聞くことしかできなかった。彼女の話はもっぱら、住民組織が意見の違いにより次々と分裂して弱体化したことと、移転してきたときに皆でGという協同組合(COOP)を設立し、家を建築するための資材をそこから買ったのは良かったが、ほとんどの人が生計の手段がないためにその借金を返すことができず、10年がたったいま、借金は莫大な額になっており、それが人々の生活のなかでつね重荷となっているのだということだった。
「これから移転を迫られている人々に対して、メッセージをお願いします。」
とBが言ってカメラを向けた。
「絶対にここには来ないほうがいいです。マニラのほうがずっといい。立ち退かないでください。それから、協同組合Gは悲惨です。私たちの失敗を見て、どうか、立ち退き政策なんかに妥協しないでください。」

それから、私たちは彼女の紹介で、「住民組織の弱体化により、いまは運営ができなくなってしまったデイケアセンター(幼稚園)」を見に行った。なんと驚いたことに、それは日本のある民間女性団体からの寄付で設立されたものだった。幼稚園らしいかわいらしい建物で、入り口には「1997年に寄贈」とある。ドライバーとして同行してくださったCOMのスタッフの追加説明によると、COM(Community Organizers Multiversity)がかつてまだ「CO-TRAIN」という名称だった1996年以前、日本の女性団体のスタディツアーを受け入れ、この再定住地に案内したのだという。そのときにはまだ住民組織の活動は活発で、その女性団体は、デイケアセンターの設立資金の支援を申し出た。センターは着工から1年もたたずに完成したという。中は広くて、アルファベットの表や子供用のポスターが貼られ、黒板や椅子などの設備もしっかりしていた。乳児用のゆりかごまである。けれど、もう2年前にここは閉鎖になり、現在は空き家同然で、誰も使っていないのだという。
ここで、デイケアセンターの近くにいた人々に、この再定住地の環境に関するインタビューをした。
「ここの環境はいかがですか?」
「非常に埃っぽいのが問題です。家のつくりが悪いのです。子供の健康に良くありません。」
「現在はどんな生計の手段がありますか?」
「ドア・マット(玄関マット)作りです。政府はそれを薦めます。しかし、作ってもそれを売る場所がありません。たびたび、バクララン(パサイ市のマーケット)まで売りに行きます。ここからバクラランへはジープで30ペソくらい。しかし、最近はバクラランのマーケットでもベンダー(行商)の取締りが厳しくて、警察に捕まってすべて取り上げられた人もいます。ディビソリア(マニラでもっとも安くてごった返すマーケット)はもっと取り締まりは少ないですが、あんなところまで行くのはとても遠くて交通費がかかって大変です。」
「ここの犯罪はとても多いんですよ。貧しいからです。ホールドアップが絶えません。」
私たちはしっかりと、彼女たちの話や、閉鎖されたデイケアセンター、そして「失敗した協同組合G」の看板などをビデオと写真を撮り、その地を後にした。

わずか2時間ずつの滞在ではあったが、これら再定住地の生活の悲惨さは、疑う余地もなかった。以前にリサール州のKV1と呼ばれる地区に何度か行ったことがある。水や電気、通学の不便さ、犯罪率の高さ、生計の喪失などの問題は共通していたが、KV1には少なくとも家はあった。土地だけを与えられたというこの2つの地区はKV1よりもさらに悪い条件にあったと考えられる。
それは事実なのだ。しかし、私はもう少し別のことが気にかかっていた。私たちのこの「取材」の手法である。あきらかに誘導尋問のような質問をして証言をビデオに撮り、住民移転のマイナスの面を必死で探して写真を撮り、移転反対のプレゼンテーションをする際の根拠としようとすることである。、その姿勢である。私たちは確かに、manipulation(操作)をおこなった。
さて、これは悪いことなのだろうか?

今年の6月に、JBICの湾岸埋め立てプロジェクトによって影響を受けるセブ島のコミュニティを訪問してお話を伺うFact-Finding Missionに参加したとき、私は主催NGO(現地のNGO)が「誘導的」かつ「操作的」な手法でインタビューを進め、ときには住民の方々の証言をねじまげてまで、「いかにJBICのプロジェクトはひどいものか」ということを強調し、私にそれを信じるように強要したことに対して強い疑問を感じた。マニラに戻った後、私はBにメールで(10月31日のRocketman「パシグ川クルーズ」をご参照ください)その理不尽を訴えたものだった。
そのときのBのコメントは
「確かにその通りだ。でも、僕たちでさえ、そうしないと仕方がないときには、あえてプロジェクトの悪い面だけを強調することだってあるんだ。ときにはそういう戦略もとらざるを得ないんだ。」
また、Bの同僚のオーガナイザーJが別のときに、こんな興味深いことを言っていた。
「私も、日本からスタディツアーがくれば、プロジェクトの悪い面ばかりを言って、いかにフィリピン政府が、JBICが非人道的であるかを強調するでしょうね。彼らは限られた数時間しかコミュニティを訪問しない。そんなことでは何もわからないと私は思う。住民組織の人たちもそう思っている。でも、いざ彼らが『お話を聞かせてください』と言ってくれば、やはり、その短時間の間に、いかにJBICが悪いか、ということを伝えようとするでしょう。ほかの面を見てもらうことを犠牲にしてでも。誰にとっても良いことではないのでしょうけど、スタディツアーグループから協力と共感を得たいから、どうしてもそういう形になってしまう。というかね、スタディツアーグループはそれくらいのことはわかっているものだと思ってたんだけど。本当に、彼らはそんなに単純なの? 私たちの話を丸ごと信じて『おお、ODAはなんて悪いんだ!』と言ってJBICに突進していくような人たちなの? だとしたらそれこそが問題なのよ。誰の語る言葉だって、ある程度のバイアスはかかっているのだし、特にこんな反対運動なんて、バイアスがかかっていて当たり前。貧しいコミュニティの人たち自身も、そのくらいのことはわかってるのよ。バイアスをかけているほうが悪いのではなくて、バイアスを見抜けない日本人グループのほうにこそ問題があるのよ。」

なるほど…。それは確かにその通りである。セブのあのFact-Finding Missionだって、あんなに露骨に操作されていることに気づかないのだとしたら、その気づかない参加者のほうに問題があるのだろうと思う。今回のこの「駆け足取材」を通して私たちが収めた「証拠映像」だって、政府の側の人々はちゃあんとわかっていて、「はいはい、操作されてますねぇ」と思いながら見るのだろうし。逆に操作しないありのままの姿などをとろうとすれば、問題の焦点はぼやけ、反対運動になんかなりゃしない。と、妙に納得させられるのであった。
それにしても、セブで露骨な操作を行ったそのNGOにはもう二度と会いたくないのに、COMのオーガナイザーの言うことには簡単に納得するなんて、私自身の見解も、そうとうバイアスがかかっているものだ。

さらに、これには後日談がある。先日COMで、なんと、この再定住地の住民組織の活躍ぶりを描いたビデオを発見。そこでは、生き生きと運営される協同組合G、日本のNGOの支援でつくられたデイケアセンターの順調な運営、住民組織の活発化、などが映像とともに描かれていた。そのビデオがつくられて5年もたたないのに、この変容ぶり。映像とかビデオというのはつくづく、まったくあてにならないものだ。
居住者がマニラに舞い戻ったあとの
空き家(KV3)
手前の大きな家はもともとあった家、
小さな家は、移転者たちが建てた家


        
 

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