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日本のNGO ♯3 
大衆支持を得るために―魅力的に話すということ―
私が日本で7年間関わらせてもらったNGOでは、スタッフの中に、とても話のうまい人たちが数名いた。そして、恐らく彼女たちの影響を受けてか、事務所に頻繁に出入りしている青少年ボランティアの中にも、なかなか魅力的に話せる人が多くいた。一般の人を対象とした講演会や勉強会などで弁舌を振るうのはもちろん、組織内のミーティングでも、メンバーの意見をうまく引き出しながらまとめ、やる気にさせる過程を見ていると、あれはすでに一種のテクニックではないかと、10代の私でもそう思ったくらいだった。
いま思えば、彼女たちの話の内容自体は決してロジカル(論理的)だったわけではなく、単に感情に訴えかけるのが上手だっただけだと思う。けれど、一般から支持・共感を得ようとするNGOの場合はもはや、筋道が立っていようが立っていなかろうが、「いかに人をひきつける話し方をするかどうか」が重要なのだ。

そもそも大衆に支持基盤を置く日本のNGOなんて、動員が9割5分みたいなものだろうと思うので、噺の上手な人がいるかどうかというのは、組織にとってはかなり重要なポイントであると思う。

「途上国には貧しい人々がたくさんいます。たとえばフィリピンで私が訪れたところでは…(略)それでも人々は懸命に生きています。何かできることはないでしょうか。ぜひ、活動に参加してみませんか?」といった言葉で支援が集められる時代ではない。そんなことはどこの組織にも、組織でなくても個人でも言える。国際ボランティアやNGOが氾濫する日本において支持を集めるには、付加価値が必要なのだと思う。

それでも、「途上国での学校建設」や「井戸作り」、あるいは「アフガンの戦後復興のための物品提供」など、きわめてわかりやすい活動をしている組織はまだ比較的支持を集めやすい。そういった活動に足を踏み入れたい若い人は次から次へとたくさんいるのだし、ボランティアの確保も可能だろう。

けれど一方で、一般の人がおおよそ知りえないような、あるいはあまり知りえないような事柄を「問題」と捉え、それをもとに活動している組織も多く存在する。そうした組織は、一般の人々に対して支持・賛同を呼びかける場合には、
1)とりあえず興味をひきつけ(話をききに来てもらわないことには始まらない)
2)その問題背景をまず知ってもらい
3)それを「問題」だと思ってもらい
4)自分たちの活動を支援したいと思ってもらう
…といった必要がある。
第一に、いかに一般の人の関心をひくかということ、そして第二には、難しいことをいかにわかりやすく説明するかということ、第三にはどのようにして自分たちに共感してもらえるかということ、そして第四には、いかにして活動に彼らを巻き込めるかということ、が問われる。そしてこれは、並大抵のことではない。

私は自分の関心のあるいろいろな分野のメーリングリストに入っていて、毎日さまざまなイベント案内や「賛同のお願い」を受け取る。けれど、私だって、それらのすべてに関心があるわけではない。ざっと目を通しただけで削除するメールも多い。ODA改革運動には関心があるが、コトバンジャンダムの提訴について、わざわざ講演会に出かけて行ってまで知りたいとは思わない。どこかの国の人権侵害に対する声明文に署名をと言われても、よほどのことがないかぎり、「そんなこと言われてもどこまでが事実なのかもよく知らないし…」と思ってしまうだけで、署名にはいたらない。だからといって、事実を知るためにその組織のイベントに行くようなモチベーションもない。
ただし、よほどそのキャッチコピーが強烈であるとか、メールの内容がとてもわかりやすくて論理的であるとか(背景説明もその組織の立場表明もなく「○○の危機です。緊急支援をお願いします!」などと感情に訴えられても困ってしまう)、イベントで予定されている講演者やパネリストなどのスピーカーが有名な人であるとかいう場合には、行ってみようかという気持ちになる。そして万が一行った場合に、そのイベントをファシリテートしているスタッフや、スピーカーの話がとても魅力的であったら、もしかするともしかすると、ちょっとばかりは共感できるかもしれない。

ただ、残念ながら、日本でそのような体験をしたことは、ここ数年のうちに2回くらいしかない。多くのイベントの問題点は、上に挙げた4つの段階のうち3つめの「私たちとしてはこれが問題だと思うのです」と説明して「問題意識の輪」を広める段階で、賛同を急ぐあまり主催者側が感情的になり、「問題です、問題です」とただ主張するだけであったり、「この現状に目を瞑り、放置しておくわけには行きません」と言ったり(そのイベントに参加している人はこれまでそれに目を瞑ってきた人であるのだから、彼らはそれを言われると責められているような気持ちになるのではないか?)、時には主催者側と意見を同じくする一部の人だけで盛り上がって内輪の話になってしまったり、この段階で急に専門用語が飛び交ってしまう事態に陥ってしまい、結局のところ、参加者との距離感を縮めることができないまま、一方通行で終わってしまうことにある。

フィリピンでも同じ現象は見られる。フィリピンではよく、宗教系の組織が基盤となった平和活動の集いの案内や、チャリティ活動への参加を呼びかける活動(つまりは布教活動と言ってしまっていいのかもしれないけれど)、あるいは、宗教と特に関係がなくとも、街角で何らかの広報活動をしている人に出会う。コミュニティの中を回っている人もいれば、大学の中でビラを配り、受け取った学生に話しかけている人もいる。町の食堂で食事をしていても、そうした人が突然にやってくることがある。たとえば初めは「生活支援のプログラムで女性たちがつくったパパイヤ石鹸、一つ20ペソですが、いかがですが?」とか、「人の罪は赦されるのかということについて意見を聞かせてもらっていいですか?(←こんな質問、日本でなら「怪しい」と思って誰も相手にしないでしょうが、フィリピンはカトリック人口が多いので、案外そうした話に乗る人はいるのです)とか言って近づき、そのまま話をしたりビラを配ったりして、その団体の集会に来るよう勧誘するといった感じだ。時には、ジープニーの中でビラを配りはじめる人もいる。この間も、ジープニーの中である年老いた女性が突然ほかの乗客たちに「私は先日このあたりでスリに遭った女性を見たのですが、あなたはスリに遭ったことがありますか?」と話しかけ、反戦集会のビラを配っていた。それとスリとがどういう関係にあるのか、残念ながら私にはわからないけれど…。

けれど中には、なかなか話の上手な人もいて、流暢な英語でなかなか魅力的なアプローチをしてくる人もいる。私も、とても魅力的に話す人に出会ったことがある。自分の教会の布教活動をしていた中年の女性で、私が友人と道端で喋っているときに近づいてきて、私が日本人と知ると、「日本人はなぜ宗教を持たずにいられるのか説明してくれませんか?」と言ってきた。「説明できない。日本の多くの人は宗教を持たずに生きることができます。私からすればむしろ、なぜ宗教が必要なのか説明してほしい」と答えると、そこから話が始まった。彼女は英語でも非常に素敵な話し方をする人で、特に押し付けがましくはなく、対話型で話は進んでいった。彼女が最終的には自分の教会に私を誘おうとしているのだということはわかっていたけれど、彼女と話した時間は私にとっては別に不快ではなかったし、おもしろかった。「ああ、こんなに話のうまい人もいるんだなあ。この人のもとにはきっと人が集まるのだろうなあ」と素直に感心してしまった。

教会はともかくとして、精神的にも物理的にも一般から支持を得なくてはならないNGOなどの場合(精神的支持とは賛同・共感、物理的支持とは寄付行為と労働提供)、魅力的な話ができる人員が居るかどうかというのは死活問題だと思う。先ほど、日本のNGOなんて動員が9割5分と書いたけれど、動員が100パーセントという団体だってあるもの。果たしてどんな団体なのかは、おそらく私の偏見も入っているため、ご想像にお任せしますが…。


        
 

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