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社会運動 ♯2 
反戦運動 2 Non-poliは同罪か
2003.3.26
反戦運動をしている人たちは、「私たちも当事者です」と呼びかけている。ひとごとではないのだ、アメリカを支援する日本に住む私たちも戦争の当事者である、声をあげるべきだと。運動の受益者はイラク国民だけではない、私やあなたを含め、世界じゅうの人が「世界平和」という恩恵を享受するのだと。彼らの意見は理論的にはきっと正しいのだし、その理屈に従うなら、私は卑怯なフリーライダーである。
だけれど、「これは彼らだけの問題ではなく、私たちの問題でもある」、「全員が当事者」、「無関心は同罪」などという言い方はやはり胡散臭い。小学校の学級会で、数人の喧嘩を「止めなかった」としてクラス全員がお小言をもらって足止めを食らってしまう、奇妙な「連帯責任」概念に通じるものがある。

タガログ語では、exclusiveの『私たち』(聞き手を含まない)と、inclusiveの『私たち』(聞き手を含む)を区別する。彼らが「私たちの問題」だというなら、それでもかまわない。でもその場合の「私たち」というのは、聞き手を含まないexclusiveの私たちであってほしい。
歌手の宇多田ヒカルさんが、今回のイラク攻撃が始まった3月20日、自身のホームページに「戦争に賛成する人も無関心の人も同罪」と書き込んでいたという。
MLの中でもそのような投稿記事をいくつか目にした。「無関心な人」、また、「関心はあっても反対運動をするわけではない人」「声をあげない人」はともに同罪であり、戦争賛同者となんら変わらない、というのである。思っているだけで行動に起こさないことは「人間として許されない」との意見まであった。

私はこの件に関してずっと日和見でいる。たとえ日本にいたとしても、集会にも行かないだろうし、友人にペンと署名用紙を差し出された義理でもないかぎり、安保理への署名にだって協力しないだろう。「良心が痛まないのか」といったノンポリへの批判は甘んじて受けるし、「許されない」と言われるのなら、許していただかなくともかまわない。しかし、いったい「誰が」私を許さないのだろうか。誰が、無関心や日和見やノンポリを責める権限をもっているというのだろうか。

環境保護のため、割り箸を持ち歩いている人がいる。それはその人の自由だけれど、だからといって、割り箸を持ち歩かない人を非難するのは間違っている。環境保護運動をしている人が、何もしていない人を責め立てるのも間違っている。私はたまたま、1日に飢餓で死んでいく人のおおよその数(国連で発表されているもの)を知っている。そしてそれを人類にとって非常に重要な問題だと思っているとする。だからといってそれを知らない人に向かって「なぜ知らないのですか、あなたがたは!」と詰問したら、それはもちろん間違っている。
「一緒にやりましょう」、「知ってくださいよ」と呼びかけるのはかまわないけれど、「一緒にやってくれない人は許せない」、「知ろうともしないなんて人間として許されない」などということがどうして言えるだろうか。


        
 

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