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社会運動 ♯4 
連帯を求める運動
2003.9.13
フィリピン大学で研究をしておられる日本人の方が、私のこのサイトのなかの「日本のNGO批判」を受けて、次のようにおっしゃった。
「日本の一部の運動型のNGO(仮称)は、個別イシューだけにとどまることができず、マルクス主義的な連帯運動に組み込まれてしまい、ODAには反対しなくてはならないし、薬害エイズには声を上げなくてはならないし、原発には反対しなければならないし、グローバリズムには反対しなくてはならない、といったことがあるのでは?ひとつのイシュー、たとえばODA改革に関するNGOの活動家であればすべて連帯的に、原発には反対するもの、有事法には反対するもの、とされてしまい、そこで『でも私は原発には賛成です』といった個別的な発言を行うことはなかなかできない現状があるのでは。」

私はそこまで総論的には考えていないが、一部ではあれ、そのように動いている左翼運動系の組織、それらから成る「社会運動インダストリー(※)」というか「NGOコミュニティ(※)」は確かに存在する。昨年の11月3日に国労闘争団を先頭として大阪で開催された集会のタイトルは「とめよう戦争・環境破壊・首切り自由を!反グローバリズムだ!国際連帯だ!11・3団結まつり」であった。実行委員会が出したその年(「闘う秋」)の訴えは、
「アフガンだ、イラクだ、北朝鮮だ、有事立法だ、住基ネットワークだ、このままでいいのか、いざ腕を組もう、国労闘う闘争団、いざ、声を合わせよう、ユニオンの仲間たち、いざ歌おう、フィリピンの同志達、いざ踊ろう、韓国の親友達」
と歌われている(同集会の案内に掲載されていた歌から引用)。
どう考えても、国労闘争団の闘う鉄建公団訴訟や全労災被災労働者の復帰などの課題と北朝鮮が密接に関係するのかわからないし、「フィリピンの同志たち」と歌われているのも謎である。当日、実際に行ってみると、出店している団体は政治団体から労働組合、フィリピン支援のNGOなどさまざまで、中央ステージの上では、一見関連のなさそうな各団体のパフォーマンスやアピールが次々とおこなわれていた。それらをつないでいるのはただひとつ「体制批判のための連帯(ソリダリティ)」であり、だからこそ左翼と呼ばれるのであろう。確かに、その場では私も「いえ、私はODAには興味がありますが、ODAがすべて悪だとは思えないのですが」とか、「私、住基ネットにはいまいち関心がありませんで」などと発言するのはさすがに躊躇された。
小林まさのりの「ゴーマニズム宣言・脱正義論」では、薬害エイズ訴訟運動に関わった学生たちが、原告団の勝訴という「運動の終焉」にピリオドを打たず、その後も勉強会や別カテゴリーの運動(沖縄平和問題)などを通した「運動」を続けてゆきたいと主張したことに対する筆者の落胆が描かれている。そもそもこれは高校3年の倫理の時間に先生が参考文献として紹介されたものであり、当時まだ「活動家」だった私はとても衝撃を受けた。
イシュー・ベースで始まった運動が次第に別のイシューとの「連帯」の要素を帯び、「この自立」を失う、という指摘は鋭いと思った。
実際に私も、それまでは、所属NGOの主催/参加するイベントやフリーマーケットなどで出会った「ほかのNGO」の人たちと話しているうちに、いろいろなほかのイシューに関する運動を知り、心を乱されることがあった。単に「ほかのNGOとの人間関係作り」のという点で、イベントにお互いに参加しあったり、会員になりあったりするのは「おつきあい」だからよいとしても、もっと私自身の心の中に沸き起こる感情で、たとえば、自分のいま関わっている「飢餓」の問題だけではなく、「フェアトレード」にも関心をもたなくてはならないのだろうか…とか、「阪神大震災」にも何らかの貢献をしなくてはならないのではないだろうか…などと思うことはあった。なんといっても、自分自身が日頃から、「飢餓」というイシューにおいて、なかば「マニアック」なデータや少しばかりの途上国とこう経験を披露し、相手が知らないのをまるでそれが悪いことかのように「この問題をぜひ知ってください、そして一緒に活動しましょう」と呼びかけているのだから、逆に、自分の知らないイシューにおいて他人から同じことをされると、「ああ、私って知らなかったんや」「こういった場で出会ったんだから何かしら活動にも共通項があるはずだし、この活動も大きく言えば飢餓にも関係することだし、せっかく言ったはるし、協力しないとなあ」などと思いたくなるのも当然だったのかもしれない。こうして、一時期は自分の活動地域内にいくつもの「仲良しNGO」を作ってしまい、自分の団体の活動に加えて、ほかの団体から誘われるイベントにも少しは顔を出さなくてはならない、と思い込んでいた。
また、私が活動をしていたそのNGOは「飢餓を終わらせる」ことをスローガンに掲げていたため、「飢餓が終わったらこのNGOは解散するのだろうか?」という強い疑問を抱いたことがある(そのころは、自分たちが一生懸命に活動すれば飢餓はもうすぐ終わると思っていたので)。ある日、それをほかのメンバーに聞いてみると「飢餓が終わっても、取り組むべき課題は地球上にたくさんあるじゃない!」と力強く言われ、「そうか!」と納得した。こうなってくると、いったい何を目的に活動しているんだかわからない。
そんな私にとって、先述の「ゴーマニズム宣言・脱正義論」は少しどころではなく衝撃的であった。実を言うと、それもまた、私が高校を卒業する前にNGOの活動をいったんやめた理由のひとつであった。
そして、その3年ほど経ったあとに関わらせていただいた「ODA改革運動」の中で、日本の「提言型NGO」のコミュニティにおいて、「ゴーマニズム宣言」で描かれていた「連帯を求める運動」「終わらない運動」の姿を再確認した。ODA問題に関心を持つのであれば日本国内の公共事業やダム建設や、それによってもたらされる環境問題にも関心(批判的な)を持って当たり前だと言われたり、「私はODAに興味はあるけれど、反グローバリズム運動には賛同できないのですけど」というと「どうして?だって繋がってるじゃない」と驚かれたり。繋がっていようがいまいが、運動はそのイシューに問題意識のある人だけがすればいいのだろうと思うのだけれど、なかなかそう言い切れないのが実情なのだろうなあ、と思う。

お話をしているうちに、どうやら彼は、「貧困は先進国による途上国の搾取に起因する」とするような従属論的な見方や、そうした考え方を軸としたマルクス主義的な社会運動、それらにおける「効率」と「正統性」に対して批判的である、と感じられてきた。正統性や効率性に関して言うならば、それは一部その通りだと思う。
とはいっても、私は開発プログラムや社会運動の成果を上げたいとか、フィリピンの貧困を緩和したい、とかいった目的でフィリピンに来ているわけではなく、単に運動やNGOのとる行動そのものに関心があるだけなので、日本のNGOの正統性やマルクス主義的な社会運動の効率や正統性は、どうあっても良いと思っているのでそう申し上げた。もちろん、公共のお金を使う主体(おもに政府)は、効率的で正統であってもらわないと困るのだけれど、NGOや運動体が自分たちの資源を使って何かしている場合は、したいように好きにやればいいのではないかなと。


※「社会運動インダストリー」とは、「ある社会運動のもっとも幅広い選好の到達をその目標としている全ての社会運動組織にによって」形成されるものとされる。(ジョン・マッカーシーとメイヤー・ゾールド「社会運動の合理的理論(原題は"Resourse Mobilization and Social Movement: A Partial Theory")」、塩原勉『資源動員と組織戦略』新曜社1989年に収録)
つまり、ある特定のイシューに対して社会運動を行う社会運動組織の総称。

※「NGOコミュニティ」とは、アキノ政権以降のフィリピンでのNGOの活動スペースの拡大を指してよく使われる語。


        
 

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