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社会運動 ♯5 
反グローバリゼーション運動 ―田中宇氏のホームページから―
2003.11.12
このサイトのどこかでも述べたように思うが、私は「反ODA運動」以上に「反グローバリズム運動」に対しては批判的である。
昨年、大学院の経済政策のクラスで、反グローバリゼーション派の主張を否定する論文を読んだ。 担当の先生は官僚出身で、反グローバリズム運動には否定的だった。指定された論文は、ジャグディシュ・バグワティ氏の「人間の顔をした「グローバル化をめざせ」(論座2002年3月号、Foreign Affairs提携特集「反グローバル化勢力の主張を正す」)と、ジョセフ・ナイ氏の「グローバル統治の民主化を促進するには(Globalization's Democratic Deficit)」(フォーリン・アフェアーズ日本語版2001年8月号)、そして、アマルティア・セン氏の"If It’s Fair, It’s Good: 10 Truths About Globalization"(新聞記事の一部だが、手元になく、どの新聞だったかは失念)、の3つ。なかでも、ジョセフ・ナイ氏のこの論文は、一部の反グローバライゼーション勢力の主張する「WTOなどの国際機関は普通選挙と市民の信託を果たしておらず、国際法は基盤が弱く、加盟国のすべてが民主的なわけではない(加盟国の立場の一部しか代弁しない)から非民主的である」という主張に反論を試みており、なかなかおもしろかった。
そのクラスの受講者は、私を含めてたった2人しかいなかったので、授業のディスカッションはほとんど「対話」となるのだが、そのなかで私は、「反グローバリゼーション」運動の問題点として、次の3点を挙げた。第一に、事実関係の認識。たとえば東アジアでは世界的な貿易投資の拡大に対応した国こそが高い経済成長を遂げたように、貿易投資の拡大が途上国の経済成長にプラスになった例もあるのに、運動はそれを無視している。第二に、主張の妥当性への疑問がある。彼らの主張の中には、国内における労働問題や戦争など、本当に貿易投資の拡大の帰結として生じているのかどうか疑わしいものも含まれる。シアトルでの暴動の主導者はNGOだけではなく、アナーキスト、若者、共産主義者などであった。第三には、運動の代表性の問題である。あのような運動では。誰がNGOであり、誰が運動の担い手であり、彼らは誰の利益を代表するのかがわからない。本来は多様なはずの市民やNGOの取り組みが、単に声の大きさだけで測られるという問題がある。
  
そのときはそれで終わってしまったのだが、これは大きな問題なので、このFence-sittingのページでもいつかは反グローバリゼーション運動というものをとりあげようと思っていた。「そもそも、グローバリゼーションとは何か?(いろいろな人が定義しているが、ほかの多くの言葉と同様に、統一見解がないのが実情である)」、「同様に、反グローバリゼーション運動とは何か?(この問いもすでに堂々巡りである)」、「いったい何がグローバリゼーションの帰結と言えるのか?」などなど、このテーマで書くにはクリアしなくてはならない問題が多すぎて、書くのをためらっていた。いやいや、というよりも、考えるのを怠っていた。
しかし、最近、身近で「反グローバリゼーション」に密接に関係する集会が、皮肉にも、私が日頃から敬愛し、慕っているマニラのコミュニティ・オーガナイザーたちの手で開かれ、その席上で自分の意見を述べなくてはならないという窮地を経験してしまった(2003年10月27日のRocketmanを参照)。これをきっかけに、とりあえず何か書くことにした。
とはいえ、今回は、自分の意見というよりも、他人のホームページの紹介である。

「反グローバリゼーション」をキーワードに検索すれば、運動当事者によるホームページはいくらでも見つかるだろう。しかし、第三者的なわかりやすい解説を私はあまり知らない。話題を呼んだNHK『変革の世紀』シリーズ1作目の「国家を超える市民パワー」は、どちらかといえば運動を賞賛しているため、NGOの世界ではかなり有名であるが、その分析はいまひとつである。
いっぽう、『通商白書2001』は、反グローバリズム運動の主張にひとつひとつ反論する形で、彼らの主張を覆し、日本がWTOの会合を支持する根拠を説明しようとしていて、なかなかおもしろい。 このサイトでは、シアトルに集ったNGOがいったいどんな団体だったのかという調査結果を載せている(エクセルファイルで閲覧可)。それによると、参加団体は雇用問題から環境問題、保護貿易主義、文化問題など多岐にわたっており、よって彼らは「必ずしも統一目的を掲げて運動を展開したわけではない」という主張が成り立つ。


田中宇の国際ニュース解説は、私のお気に入りのサイトのひとつである。さすがはプロフェショナルのジャーナリスト、その読み応えはなかなかのものである。このサイトに、数年前のものだが、WTOと市民運動に関する記述がいくつかある。どれも、反グローバリゼーションの動きに批判的なものであるが、その理由がそれぞれに非常におもしろいので、ここでは、それらの内容を紹介したい。

シアトルWTO会議をめぐる奇妙な騒乱 (1999.12.6)
シアトルで抗議行動を組織した主要メンバーは、「自由貿易が環境を破壊し、アメリカと世界の労働者の生活を悪化させる」と主張するアメリカの労働組合連合であった。「格安製品の輸入を止めたい」彼らの主張と、「格安製品の輸出を続けたい」途上国政府とが「WTOに反対する」という一点でのみ一致した。また、アメリカからの遺伝子組み換え食品輸入に反対するフランスの市民グループと、アメリカの市民団体ともなぜか「WTO許すまじ」の一点で共闘した。田中氏はこれを「奇妙な呉越同舟」と呼んでいる。敵の敵は味方なのか、シアトルに集ったとされる「市民パワー」も、「国境を越えた市民の団結」や左派が叫んだような「国際連帯」などではなく、実はごちゃまぜの運動団体である。当たり前のことだが、具体的な例を挙げて説明されないと、見落としがちなことではある。

世界を支配するNGOネットワーク (1999.12.13)
モンサント社の遺伝子組み換え作物批判は、インターネットによって、ヨーロッパの複数の国における統一的な反対運動に発展した。このような「誰が運動の中心で誰が煽っているのか」わからない運動には、政府も企業も対策を打つことが難しく、NGOの主張を受け入れるしかない。 田中氏はこの現象に対して、議論が不十分なままに感情的な反対運動が広がってしまうこと、たとえば遺伝子組み換え作物が人類にとってプラスなのかマイナスなのかを調べて考えることなく企業や政府を敵視することは問題だと指摘している。
NGOは自らを「一般市民」と称することが許されている。そのため、当局が失敗したら非難されるのに対して、NGOが人々を煽っておいてあとで間違いが判明しても、責任を追及されない。田中氏はこれを「いびつさ」と表現しているが、この指摘は非常におもしろい。
ときには「被害者の代弁者」、ときには「声なきひとの代弁者」、ときには「貧しい人の代弁者」…と、さまざまな言葉で自分たちの主張を正当化するNGO。それだけをきけば、彼らはあたかも正義の味方のようである。が、代弁者は責任をとらない。
「NGOは市民の代弁者」というこのおかしな言説が、非常に美しい響きを持って一般に受け入れられているのはなぜだろう。関西NGOのボブ・サップと呼ばれた方が今年の初めに、外務省とNGOとの政策協議会の窓口、パイプとなる「代表NGO」としてのネットワークNGOをつくろうという一部の動きに反対して、「政府との協議会でなにかを決めようとすることがおかしい。政策決定の場は、民主的な代表によって構成される国会であって、何者を代表するのでもないNGOに、何かが決められるはずはない。協議会は、政策を決めるプロセスの提示や、問題提起の場であるはず。NGOの意見が一枚岩であるはずがなく、NGOの『総意』などありえない。NGOが何か総意を表現したい場合は、個別の団体がそれぞれに声明をつくって賛同をつのるという手段がある。そうした手続きをせずに「代表」を決めるというのは、楽だが危険な発想だ」とコメントされていたことが思い出される。

復活する国際左翼運動 (2000.5.11)
いずれも市民運動に対して「あなたたちの要求は、もう十分に叶えられていますよ」というメッセージを送ったのだが、市民運動の側は「いやいや、改革は表面的なもので、IMFやWTOの本質は今も、先進国の多国籍企業のための機関のままだ」と反論している。
このように市民運動が強硬な姿勢を続けているのは、運動の目的がIMFやWTOを「監視」することにあるのではなく、「乗っ取る」ことにあるからではなか、と思われる。急速に国際化が進む世界の中で、IMFやWTOといった国際機関は「世界政府」的な役割を担いつつあるが、これらの機関はここ数年、運営方針をめぐる「右派」と「左派」の対立が続いているからである。
右派=街宣車・左派=内ゲバ、という日本国内の図式でとらえがちだが、ここでいう左派・右派は、そうではない。欧米の政策立案に関係する人々の話である。
しかも「新新左翼」とも呼ぶべき昨今の欧米の運動は、旧来の左翼と「連帯」していない。それどころか、たとえば彼らは、今や世界最大の社会主義国として生き残っている中国政府の人権侵害を強く非難している。中国のWTO加盟
左右の対立は「どうすれば世界はうまく発展するか」という点にある。「右派」は市場原理を重視する人々で「自由な競争こそが、人々の向上心を奨励し、発展につながる」と考えている。一方「左派」は、「当局の機能」が必要だと考える人々で「自由競争に任せると弱肉強食が進んでしまうので、人権や環境の保護、貧困政策など、当局が規制や援助、福祉などの機能を果たさねばならない」と主張している。
左派はかつて「人類には社会主義が最適だ」と考えていたが、ソ連崩壊によって、その考えを貫くことはできなくなり、代わりに「環境保護」「人権擁護」などに力点を置くようになった。

復活する国際左翼運動(2) 矛盾のパワー (2000.5.15)
これは一番読み応えがあった。3つの点で、非常におもしろい指摘がなされている。
第一に、「UNIXに似ている運動の新機能」と題された、運動の「バージョンアップ」の動向。いわば、運動を支えるロジスティック面(という言葉の域を超えているような気もするが…)の強化である。この記事によると、運動の背後には、話し合いが紛糾したときに冷静な雰囲気を維持するための司会進行技能を身につけた「雰囲気監視人」、水や食料、プラカードの材料を調達する「小人(エルフ)」、デモ中に逮捕された人が拘留されている間、その人の家族やペットや観葉植物の面倒をみる「監獄救済担当」など、さまざまな役割の後方支援者が組織されているという。 田中氏はこれを、インターネットのサーバーに使われている基本システムのUNIXの各専門プログラムがいくつも「出来事」を待機している「デーモン」になぞらえ、「秩序が保たれている」としており、さらには、警官隊との衝突で全体の指揮が失われても各組が独自に動けるデモ隊の「組制度」仕組みを、1台のサーバーがクラッシュしても他のサーバーは自律的に動き続けるネットの仕組みと同じだとも書いている。

第二に彼は、こうした運動は「途上国の貧しい人々」の苦しみをなくすためにあるとされながら、実際には、貧しい人々自身はあまり運動にたずさわっておらず、もっぱら先進国の豊かな人々が「貧困者」というイメージの元に運動を進めていると指摘する。最近では途上国における反IMF運動なども生まれているが、この指摘は正しいだろう。

第三に、彼は「矛盾のパワー」を挙げている。この運動は「自分の国がやっていること」に反対する運動である。アメリカでは18-24歳の若者の投票率は20%しかないのに、この年代は市民運動を支えているという矛盾がある。
また、こうしたUNIX型の運動が進化したのはインターネットのお陰であり、運動参加者の多くがマクドナルド世代であり、国際会議を追って世界中を飛び回る活動家たちは実はクリントンが世界各国の運輸省に強制した規制緩和の産物である格安航空券の恩恵に甘んじているのであると指摘する。活動家たちもまた資本主義システムの上に生きているのであり、その点で反グローバリズム運動は「自己否定的」であるというのである。
田中氏は、反グローバリゼーション運動は、こうした「自己改革」の側面を含んでいるだけに、アメリカの政治を大きく変える可能性を秘めていると結論付けている。

第三の「反グローバリズム運動は自己否定的」という彼の議論はおもしろいのだけれど、ここには若干の無理があるように私には感じられる。前者の「自分の国がやっていることを否定しなくてはならない自己否定」と、後者の「資本主義システムの上に生きている自分自身を否定しなくてはならない自己否定」はともに自己否定かもしれないが、異なるものであり、同列に扱ってはいけないと思うのである。少なくとも、前者には「わが国の政府」という敵手が明確に存在する。しかし、後者には敵がいない。石を投げるべき相手がいないのである。後者は自己否定的であり自己回帰的であるが、前者は決して、自己否定的ではない。
これは、「自分も環境を破壊しているのに『地球を大切に』と言うことの矛盾」を孕んでいる環境保護運動、そして「自分も安いバナナを買うことで途上国を搾取しているかもしれないのに、『貧しい国のために』と言うことの矛盾」を孕む国際協力運動などにも当てはまる図式である。矛先を「何も手立てを講じない自国の政府」や「人々への影響を省みず営利ばかり追及している大企業」に向けることは、彼らにとっては決して、自己否定を意味しない。自己否定的な運動とは、矛先を自分自身に向けなくてはならない運動のことではないかと私は思う。その点において、二者は分けて考えるべきだと思うし、反グローバリゼーション運動の「自己改革」的要素がアメリカの政治を変えるとは、私にはあまり思えない。


なお、純粋に糾弾の指を自分自身に向けなくてはならない「自己否定的な運動」「自己回帰的な運動」についてはまたどこかで書く予定である。


        
 

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