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コミュニティ・オーガナイジングとアクティビスタ ♯5
パサイ市の火災
2003.10.28(火)
去る10月20日の夜19時半、エドサ大通りのMRT(高架鉄道)マガリヤネス駅とタフト駅の間にある不法居住地区で火災が発生した。現場はバス会社BLTDのターミナルの跡地(BLTD社は9月に営業を停止しており、それまでベンダー(※)として生活していた人々は生計を失っていたという)の近くで、パサイ市側の2つのバランガイ143、144と、マカティ市側のひとつのバランガイが被災した。出火元である143の被害がもっとも大きく、バランガイ役員の説明では、630世帯が被害を受けた。
出火原因は夫婦喧嘩で、夫が妻に向かって投げつけた石油ランプが周りに燃え移ったことが原因という。スクワッターの住民たちは川沿いの狭い路地を一列に並んでエドサ大通りまで非難したという。あまりに道が狭くて暗かったので、、大通りから遠く離れた内部に住んでいた多くの人は、扇風機などの家財道具はおろか、衣類や日用品すらもちだすことができなかった模様である。バランガイの保健婦が避難通路の通行整理にあたり、そのちょうど一週間前に、壊れかかっていた危険な木製の橋の補修工事が終了していたこともあって、死者は出なかった。午前3時、消防隊は安全宣言を出したが、人々が家に戻った3時半ごろ、燃え残っていた建物の火が風で近くの食堂のLPGガスに引火し、再び火災が起こって人々はもう一度避難した。一度目の避難で運び出したものをすでに家に持ち帰った人もいたという。この2度目の火災でさらに被害は広がり、最終的に、3バランガイすべてをあわせた被災世帯は1000世帯以上にのぼるという。

新聞各紙でも報道されていたので、もちろん私もこの事件を知っていたが、スクワッターエリアの火事はよく起こることだし(PA地区でも先月起こった。原因は盗電のための電線の細工だった)、たいして気にも留めてはいなかった。
しかし、事件から1週間が経過した10月28日のこの日、ふとしたきっかけで、私は現場を訪れることになった。フィリピン大学のロスバニョス校におられるある日本人のOさんから、「明日、まにら新聞の方と一緒に現場を訪れますが一緒にどうですか? 私は、被災者に対してフィリピン大学の留学生で何かできればなあと思っています。個人的にも炊き出しなどを考えています。あなたは都市貧困地区の研究をしていると聞いていますし、きっと勉強になるでしょう」というお電話をいただいたのである。「…日本人が炊き出し…? それに、フィリピン大学の留学生でいったい何ができると・‥?」との疑問も頭を掠めたが、彼はわざわざ私の携帯電話の番号をお知り合いの方に尋ねてお電話してくださったとのこと。それに、まにら新聞がどのような取材をするのかという興味もあった私は、「同行させていただきます」と返事をした。
そのあとが大変だった。フィリピン大学地域開発学部のカリト先生の教えにすっかり染まっている私は、
「被災地を訪ねるには、普通のコミュニティを訪れるときよりもさらに繊細な心構えが必要なはず。できるだけみすぼらしい服装で行くべきかしら…でも、別にコミュニティ・オーガナイザーとして行くのではないのだから、住民の方々の気持ちを逆撫でしない程度に配慮すればいいのか…。」
「救援物資として何か食べ物でも買って持っていくべきかしら? カリト先生は、こうした緊急援助のときの方法論は教えてくれなかったけど、ちゃんと聞いておくべきだった…。ああ、どうしよう。阪神大震災のとき、被災者がジャーナリストに『せめてペットボトルの水を一本ずつでも持って来てくれれば』と言っていたのを考えると、やはり何か持っていくべきなのだろうか? でも、どんな物資が必要なのかわからないしなあ…いっそ、お金を持って行くべきなのだろうか? いやいや、いくら緊急事態とはいえ、救済者のごとくお金を持ち込むのは、それはさすがにまずいだろう。」
など、それこそ一時間くらいは思い悩み、挙句の果てには現在の下宿の家主(実は私は9月下旬にケソン市からマニラ市に引っ越して、現在は比較的裕福なアメリカ系フィリピン人のご家庭に下宿させていただいている)が雇っておられるメイドさんのところへ行って「ねえ、どうしたらいいかしら」と相談する始末。彼女に
「特に派手な格好をしていくのでなければ、どうせ日本人だってことはわかっているのだし、被災者たちも、あなたが日本人だからって敵意を抱くことはないでしょう。そのまま、フィリピン大学で勉強している日本人ですって言えばいいのよ。あなたがいつも着ているフィリピン大学のロゴ入りのTシャツでも着ていけばいいんじゃない?」
と言われ、ようやく納得して眠りについた。

そして当日…カリト先生やCOMの厳しいオーガナイザーたちのアドバイスを忠実に守りたい私は、もちろん英語など使わず、タガログ語で、できるだけ被災者を傷つけないように行動しようとした。けれどそれは、フィリピン大学ロスバニョス校のOさんやまにら新聞社の記者の方のスタンスとは少し違っていたようだった。私たちは、バランガイの役員(統一選挙で選出される)やヘルスワーカー(保健婦さん。基本的には指名制で、ほぼ無給)の方々に話をきいてまわった。英語で説明してくださった方もおられたが、火災のあった日の話になると急に早口のタガログ語になったり、避難中のことを思い出して「なにひとつ持ち出せなかった。飼っていた犬も助けてやれなかった」と涙を流す人もいて、私はもう、気が気ではなかった。
現地でインタビューをしたところ、DSWD(社会福祉開発庁)や各種NGOの支援で、食料も衣料品も、鍋や釜などの調理器具もそれなりにそろっているようであった。私たちが訪れたときにはちょうどパサイ市の市長も慰問に訪れていて、演説とともに、トラックに積まれた米が被災者に配られているところだった。下院議員からの贈り物もあった。選挙前なのだから、当然のことである。9月に私の調査地であるPA地区で火災が起こった(メディアではほとんど報道されなかったが)ときにも、DSWDマニラ支部は翌日にも救援物資として食料やリト・アチェンサ市長の名前入りTシャツ(!)を贈り、近くの体育館を避難所と指定し、一週間後には、リト・アチェンサ市長とアロヨ大統領が慰問に訪れた。
コミュニティを去ったあと、Oさんは、被災地への支援としてフィリピン大学の留学生で炊き出しをしたり、まにら新聞の読者である在フィリピン日本人に呼びかけて衣料や寄付金などを集めることを提案された。彼のお話では、まにら新聞の誌上で救援物資を募ることには次の3つの意義があるという。1)被災者を助けること、2)日本のイメージを向上させること、3)これまで貧困層接触することのなかった駐在人妻などの在フィリピン日本人が救援物資を手に現地を訪れることで、彼女たちはフィリピンの現実から学ぶことができる…。
1と2、あるいは1と3は両立しないと思うのは私だけだろうか。それに、3はジェンダーの観点からも問題があるのではないだろうか。
私は何をしているわけでもないから、何をどうこう言う筋合いもないのだけれど、人々はおそらく、日本人の支援など期待してはいないと思う。別に日本人が何をしなくても、フィリピンのNGOはもっともっと強くて機敏だし、選挙前であることを考慮すれば、それ以上に強い「NGOを名乗る政治組織」や「人々の味方を自称する候補者」や、政治組織につながるNGOがここぞとばかりにが金やモノをばら撒いているのは、当然予想されることだし、実際のインタビューでも明らかになったことである。
私はそれを彼らに言うことができなかった。彼らのほうが私より長くマニラにいるのだし、それに、私より長く生きているのだし…。私はただ、一時的にカリト先生の教えるコミュニティ・オーガナイジングという理想に憧れているだけなのかもしれない。


※ベンダー: 路上の物売り。特にバスターミナルにはお菓子やタバコやピーナッツや軽食やフルーツや飲料のベンダーがたくさんいる。籠を下げてバスの内部に入ってきてくれたり、窓の外から営業活動をしてくれたりするので、バスを降りることなく買い物ができて、とても便利である。日本の車内販売のように特別価格ではないし! ただ、もちろん違法で、子どものベンダーは路上児童労働として深刻な問題である。なお、ときどき抜き打ちでベンダーの取締りがおこなわれているが、商売道具のきわめて少ない彼らは、取り締まりが来るとあっという間に逃げることができる。


        
 

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