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フィリピン大学での授業 ♯1
コミュニティの噺屋
2003.6.18(水)
夏休み(フィリピンの夏休みは4〜5月)が終わり、大学に活気が戻ってきた。

私はVisiting Research Fellowという資格でフィリピン大学に滞在しており、学生ではない。本当は聴講生として、フィリピン大学内のCollege of Social Work and Community Development (CSWCD、日本語では「社会福祉地域開発学部」?) に所属したかったのだけれど、私のように「大学の卒業証明がないのに大学院生」などという訳ありの外国人には、学生ビザも取れず、授業登録はおろか、聴講の手続きも不可能であることが、昨年の8月に留学準備のためこちらにきたときに明らかになった。学生にはなれないことがはっきりした私は、フィリピンで私がお世話になっているK財団というNGO(私は以前はここの寮に住んでいた)のコンサルタントをしておられる同カレッジのカリト教授に、個人的に「先生の授業を聴講したいのですが…それから、できればフィリピンでのアドバイザーになっていただけませんか?」お願いしてみた。
カリト先生は、実はカレッジのDean(学部長)。バタアン州の貧しい家庭に生まれ、物売りをしながら苦学した敬虔なクリスチャンで、熱き民衆活動家の魂をもち(実際、彼はNational Democratsの活動家であった)、授業でタガログ語しか使わないことで超有名である。ちなみに、カリトというのは愛称であって、お名前ではない。先生の本名はアンヘリト(Angelito)先生。愛称のリトに、目上の男性につける敬称のKaをつけて、Ka Lito。
カリト教授は「OK、君はK財団の友人なのだから、特別に英語で補ってあげよう。私の授業に来なさい。インフォーマルな聴講生ということにしよう。手続きはいらない。それから、カレッジの図書館を使わせてもらえるように、私からライブラリアンに言ってあげよう。」と、英語でおっしゃった。それが、昨年の8月。とてもお優しい先生なのである。
かくして私はなかば「裏口」的に授業聴講を認めていただいた。こうなれば、学生としての拘束もなく、ビザの取得手続きも簡単、大学内の全図書館を使えるというVisiting Research Fellow資格のほうがずっと恵まれていることになる。

そして今年。4月のある日、先生のお部屋に行くと
「これからはタガログで喋ることにする。わかっているね、私の授業はCommunity Developmentだからね。Community Developmentは誰のためものかね?」とおっしゃる。
「人々(mga tao)のためのものです」と私。
「我々はコミュニティで誰と共に働くのかね?」
「人々とです。」
「人々は英語を話すかね?」
「いいえ、タガログ語を話します…。」
「Di ba?(だろう?)」

果たして今日は、ついにカリト先生の初授業が行われた。先生は予定時刻の17時半になる前から教室できちんと待機なさり、授業の最初に「私は英語は使いません」と宣告。居候の私はともかくとして、正規登録している外国人もいるというのに、授業はすべてタガログ語で授業は進行する。

タガログ語よりも何よりも驚かされたのが、先生の語り口調だった。教室の前に貼られた模造紙(現在の開発の問題点とCommunity Development のコンセプトが劇画調の絵で描かれている)を指差しながら、それらひとつひとつについて例を挙げて説明なさるのだが、その説明のしかたがまさに「名物教授」にふさわしい。一人一人の学生の肩を叩きながら教室を歩き回り、ただただディスクジョッキーのように滑らかに喋り続け、コミュニティを想定した一人芝居をし、そこここで一気に全員の笑いを取り…、まだとてもタガログ語ができるとは言えない私も、唖然としながらも一気に引き込まれてしまった。

たとえば、現在の開発の問題点として彼は「貧困な市場システム」を挙げ、「貧困な市場システム。こんなことを言うとすぐに『カリト、あんたはコミュニスト(共産主義者)だ』という人がいるかも知れないが…なら、地域開発を推進する人はみんなコミュニストだ。ははは。」と前置きしたあとで、次のような話をなさった。(もちろん身振り手振りつき、そして、台詞のところでは一人芝居のように語調を変えて・・・)
「あるコミュニティで、政府はlivelihood program(生計を支えるプログラム)を始めた。DSWD(社会福祉省)は、コミュニティの女性たちに、手工芸品の籠(バスケット)作りを推進した。こんな形の、美しい竹でできたバスケット。ある日には、役人はコミュニティにやってきて、女性たちと共に籠作りをしながらこう言った。『おお、私は人々と "共に" 働いたんだ』彼は半日コミュニティに滞在して、籠を作って満足して帰っていった。…しかし、肝心の市場は十分にはなかった。初めのうちは、籠は政府が買い取った。しかし、政府は買取をすぐに止めてしまった。籠は誰が買うのだろう。いま、コミュニティに行ってみると、なにが起こっているかわかるかね?女性たちは私にこう言うんだ。『ねえ、カリトー。お米がないんです。一日一食。ときどきは食べない日もあります。でも、籠はたくさん、余分にありますよ』…なんと、コミュニティには、こーんなに大きな、売れない籠の山があるのだよ。」
ここで、学生たちは大笑い。(こうして文字にしてみると、「おいおい、そんなに大笑いするほど可笑しい話か?」と思わけるかもしれないけれど、まず先生の口調がおもしろいというのが半分。)。どのお話も一人芝居も、フィリピンの「貧しい」人々の現状を皮肉っぽく語ったもので、必ず最後には落としどころ(※)がついており、そのたびに、学生たちはどっと沸く。学生と言っても、この授業を取っている学生の大半は、NGOやGO(政府組織)、あるいは民間企業で働いた経験のある、あるいは、現役で働いている人々だ。ちなみに、私の後ろの席に座っていたのは現役のユニセフ職員だった。マカティにあるオフィスで16時に仕事を終え、17時半からのこの授業に直行するのだという。そんな「いい大人」のmature studentsたちが先生の話に大ウケしていることのほうが、なんだか可笑しい。

いや、やっぱり、「民衆と共に働く」ことをめざすかぎり、噺のうまさが命なのだろうな、と思う。私が現在お世話になっているCOMという団体のコミュニティ・オーガナイザーの方々も皆、話し方は抜群に魅力的だ。ただし、コミュニティ・オーガナイジングに使われる言語はもちろんタガログ語なので、私には内容がきちんと把握できないという問題はあるけれど、それにしても、住民組織のミーティングでばらばらの意見が出されたときに話をまとめに入るタイミング、質問設定の仕方など、さすが、と思わされる。あるオーガナイザーにそう言うと、「この話し方は、学生時代にS(ある左派系の政治組織の名前)で鍛えたのよ。いまでも、私は自分の話し方はSっぽいと思うけど、どうかしら?そういうところがあると思う?」と言われた。彼女たちの話し方も、決して先天性の才能ではなく、鍛えられたものなのか、と改めて納得した。

私はずっと前から、「書く」ことは好きだけれど「話す」ことは好きでも得意でもなく、ましてや大勢の前で「魅力的に話す」、「説得的に話す」、「オチをつける」、「笑いを取る」などということは絶対に不可能だと思っていた。ずっと、話すことには大きなコンプレックスがあったので、中学の頃から、英語の授業やクラブで「パブリック・スピーキング」の練習の機会があると、「英語だったら失敗してもあまり恥ずかしくないかも」と考え、それを利用しない手はないと、スピーチ・コンテスト(弁論大会)や暗唱大会には積極的に参加した。大学でもやはり英語のクラスでは「パブリック・スピーキング」や「ディベート」のクラスばかりを選んで、人前で話すときの姿勢から声の大きさ、抑揚、人をひきつける話し方やロジックなどを学び、当時所属していた英語サークルでもそのようなことを実践する機会が多くあった。そんなわけで今でも私は、少なくとも人前で話す場合は。英語で話すほうが日本語で話すよりも楽だと自分では思っている。日常会話であっても、そもそも、英語を話しているときと日本語を話しているときでは、私の話し方はまったく違う。明らかに私は、英語の場合のほうが自信に満ちた話し方をしているし、饒舌だ。(ちなみにタガログ語の場合、語彙は極端に少ないくせに、とにかく何か話していないと場が持たないような気がして、おしゃべりな5歳児の女の子のように常に何かだらだら喋り続けている。それは饒舌とはいえない。)もちろん、英語の語彙は日本語とは比較にもならないし、たいして凝った物言いもできないので、文章を書くときは日本語でないとすぐにフラストレーションが溜まる。けれども、話しているぶんには、とくに難しい単語を使うこともないので、「英語のほうが楽」とまでは行かないけれど、英語を話す時のほうが、自分に自信がある。

外部者としてコミュニティに入っていくオーガナイザーは非常に高度なコミュニケーション能力を要求されていると思う。私はオーガナイザーになりたいわけではなく、調査者としてこれからコミュニティに関わるわけだけれども、それにしたところで、そして、COMなどで、コミュニティ・オーガナイザーの洗練された話しぶりを見るたびに、そしてたぶんに政治色のかかったスピーチをあちこちで聞くたびに、「ああ、私もまずスピーチ能力をつけないといけないなあ」と思わされる。


この話題に関連して、Fence-sittingのページに「大衆支持を得るために―魅力的に話すということ―」という文章を追加しました。


※日本語には、「落としどころ」「オチ」という言葉があるけれど、タガログ語で「ああ、意味がわかったよ」というときの「意味」という単語は、kahulugan。語学学校の先生によると、これは、mahulog(落ちる)という動詞から来ている言葉で、原意は、「物が落ちた場所」。つまり、「意味がわかったよ」=「ああ、落ちたところがわかったよ」ということ。異言語の意外な共通性。


        
 

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