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Fence-sitting


活動家時代の記録 ♯7 
エチオピア・ウガンダ訪問 第6日目
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1998年8月8日  

GYC2日目。今日は昨日より狭い会議室で、机をぐるりと長方形に並べて、国ごとに座る。今日もカントリーレポートの続きだからまあしかたがないけれど、せっかく世界中のメンバーが一堂に会する機会なのに、入り乱れて座れないのは少し寂しい。
会議の前に、昨日のETVをはじめ様々なマスコミにこのGYCが取り上げられたことがエチオピアのメンバーから報告された。「でも私たちは、私たちの活動が認められたから嬉しいのじゃない、飢餓のある我が国のなかでさえ、飢餓に無関心な人々がたくさんいる、私たちは人々に飢餓の終焉を訴えたい、もっともっと多くの人と一緒に飢餓と闘いたいのだ。」と、エチオピアのメンバーの一人が発言して、割れるような拍手。そこで彼は笑いながら言った。「でも今日はプレスは来ません。だからどうぞリラックスしてしゃべってくださいね。」
司会が、英語、スペイン語、日本語、フランス語の5人の通訳に対し、昨日の会議を大変素晴らしい通訳で運んでくれたことへのお礼を述べ、「あと2日間もよろしく」と言った。すると突如、日仏の通訳がしゃべり始めた。「ありがとうございます。通訳からお礼を申し上げます。今までたくさんの国際会議で通訳をしてきましたが、通訳のことを承認してくれた会議はこれが初めてです。」…彼らはサイマルアカデミーの、超一流の同時通訳者たちだ。

午前中はアフリカ各国の報告とQAセッション。特に白熱した議論は、なんと言ってもエイズの問題だ。YEHの目的は、「飢餓が子どもの命を終わらせるのではなく、子どもが飢餓を終わらせよう。」というところにあるのだが、エイズがなぜ問題になるのかというと、エイズ孤児が出るからだ。YEHマラウイでは孤児院を設立しているのだが、孤児の半分はエイズ孤児だという。YEHウガンダが言った。「孤児のケアは必要だが、エイズそのものについての対処も必要だ。特に昨日のユニセフのセッションであったような、母子の健康を保護することが。」…エチオピアのムセが96年に日本で講演したとき、次のように語っていた。「難民キャンプの母親たちは、子どもに食べさせるために売春をしています。私が、『エイズが怖くないのか』ときくと、エイズの死は待ってくれるが飢餓は待ってくれないと答えました。しかし、ここにも子どもの不幸があります。子どもたちは、母親が自分たちを食べさせるためにその行為を家の中でしている間、寝る場所もなく外で待っていなくてはならないのです。」母親がエイズに感染したら、先天的にエイズに感染した子どもが生まれる可能性も出てくる。子どもたちは孤児となり、エイズの弟や妹を抱えるのだとしたら…。
日本人には容易に理解できないこともあった。栄養プロジェクトとしてカタツムリの養殖をしているというブルキナファソだ。「なぜカタツムリなのかといえば」と、彼らは自信たっぷりに言った。「カタツムリはおいしいし、栄養価が高く、養殖中の致死率は0%だ。」…カタツムリを食べない日本人にとっては、カタツムリの養殖がいったいどのように行われていて、本当に致死率が0%なのか、とうてい理解できないところだ。
また、ガーナからは、プロジェクトの野菜畑の半分が干ばつで駄目になってしまったという報告があった。「私たちも今年は雨が降るように神に祈っています。」…日本人の感覚では、「神に祈ったらどうにかなるような話なのか?」と思ってしまう。おまけに、ガーナ人の神とベンガル人の神とエチオピア人の神は違うのだからこんなことで本当に理解し合えるのだろうかと不安である。
私たちは日本でお金を集めて、自立の支援プロジェクトだなどといっているけれど、そのプロジェクトを支援するのが本当に正しいのか、間違いが起こってしまったら一体どうしたらよいのかなんて、ふたをあけてみない限り、誰にもわからないのじゃないだろうか。たとえば、もしプロジェクトがうまくいかなかったり、井戸を掘って逆に地下水が枯渇したり、学校を建てたせいで若者が村を離れてしまったりしたら一体誰がどう責任をとればいいのだろう。 開発がもしも悪い方向に行ったとすれば。例えば、私が募金したあるプロジェクトが悪い結果を引き起こしたら、私はそれにどう責任をとればよいのだろう。…そんなことを考え始めたら、もう何もできない。どこにもお金なんて出せない。たとえば、「この会議は本当に意義があるのか。」という問いも同じだ。もちろん、私たち自身は意義があると確信しているけれど、それが絶対に正しいとは言えないだろうし、この会議には2200万円もかかっている。無駄だと言う人もいるだろう。私たちは、決して無駄とは思っていないし、2200万円分の価値があると思ってやっているけれど、世界にはたくさんの考え方があるのだから。私たちが日本から2週間ここに来るだけで、一人約35万円かかっている。渡航費、ビザ申請費、滞在費、会場など会議のためのお金、その他諸々。35万円あればエチオピアにひとつ幼稚園が建つし、バングラデシュでは30万円あったら(今は円安でもう少し高いかも知れないけれど)井戸が掘れるらしい。ウガンダの雌牛プロジェクトで提示された必要額は20万だ。つまり、私がエチオピアに行かないでそのお金をプロジェクトに回してもらえれば、バングラデシュに井戸が掘れてしまうかもしれない。その方がいいという人もいるに違いない。だいたい、高校3年生がエチオピアまで行ってなんの役に立つのか、と言う人もいるだろう。それでも、私は私の信念として、バングラデシュに井戸を掘るよりも自分自身が将来、飢餓の終わりに貢献する優良な人材になるためにエチオピアに来た。もしも、バングラデシュに井戸をひとつ掘って200人の命が救われるというのなら、私はそれ以上の人の命を救うためにこれから生きなくてはならないと思う。そして私はそれが可能だと思っている。私はエチオピアに来ることで、そしてGYCに参加することで、バングラデシュの井戸と同じくらいに、いやそれ以上に人々の役に立つ仕事ができると思う。「本当にそう思う?」…いや、少なくとも、そう信じていないと何もできない。プロジェクトもそうだ。信憑性がわからないからといって、じゃあ何もしない方がよいのかといったら絶対にそうではない。挑戦すること、とにかく成果が出るまでやってみることが大切なのだと、ジョゼフ・クラッツマン著「世界人類の食糧問題―希望と不安―」(農産漁村文化協会)という本にも書いてある。

午後は日本のカントリーレポート。16歳(高校1年)のメンバー2人が発表をしたので、他国からの参加者は驚いた。YEHは日本では中学生から大学院生までのグループだが、途上国などでは、大学生か大学院生がメインだ。プロジェクトの検証などはそれだけの知識階級でないとできないのだろうし、教育制度の違いもある。反対に、YEHアメリカなどは、以前は高校生中心の活発な活動だったのだが、高校生ばかりだとあまりにも年齢が低すぎてできることが限られてしまうので消滅してしまったそうだ。なぜ大学生がいなかったかといえば、アメリカの大学生は日本と違って勉強に忙しいので、高校から大学に入った時点でに活動を継続できなくなって皆やめてしまうのだそうだ。
日本の発表では、YEHジャパンの活動内容の他に、日本の子どもたちの現状も説明された。日本の子どもは物質的にはものすごく豊かだが、心の飢餓の問題が浮き彫りになっていること、日本で私たち子どもがお金を集め活動をしていく上で、どのような世間からの評価や批判を受けているか、などが語られた。日本の大学生メンバーが苦労して作った原稿だ。各国の参加者は真剣にきいてくれた。
最後に、96年にムセが来日したとき、北上するムセの講演に合わせて福岡〜仙台間1600キロを20日間自転車で走りながら人々に飢餓の終わりを訴えたYEHジャパンの3人の中高生バイクライダーたちのうちの一人、当時中2、現在高1のKくんとムセの、「最後のセレモニー」が行われた。
Kくんは、1600キロを走り終えた仙台の宮城県庁前のゴールでムセに抱きしめられ、「僕は98年にエチオピアに行く、今度は僕がムセと子どもたちに会いに行く。」と約束した。感動的なゴールだった。7月31日に私の地元、京都を通過した時には、Kくんたちライダーも比較的元気だったが、箱根越えから先はかなり疲労も激しかったという。それでも、ときどき電話で「今日もここまで来たよ」と報告してくれる彼らをゴールで迎えたく、また、回を重ねる度に参加者と心を開き合い、感動を広げているというムセの講演ももう一度聴きたくて、私も最終日には夜行バスで仙台に駆けつけた。仙台の講演会では、まだライダーたちが到着していないのにも関わらず、すでにムセの講演だけで会場は涙に包まれていた。車椅子に乗り、発声にも苦労のある一人の身障者の参加者が、ムセの話のあとに、手を挙げて発言された。
「私は自分で自分のことをできない体だ。でも、自分もエチオピアの子どもたちのためにできることをしたい。」
彼が長い時間かかってそれだけのことを話している間、ムセは涙を流し、自分の肩に掛けていたエチオピアの正装の襷を彼に掛けた。
そのあと全員が宮城県庁前に移動し、Kくんたちを出迎えた。それは、ここには表現できないほどに、あまりに劇的なフィナーレだった。

今日の「最後のセレモニー」で、Kくんはムセに、ここが僕の本当のゴールであり、そしてスタートだと言った。「僕が最後まで走れたのは、本当に、現地で飢餓と闘っているあなたたちのお陰で、僕はあなたたちの、その美しい目が好きで、走りきることができました。」と久保田君は言った。それからムセが話した。
「私たちの世界には何が欠けているのか。私は日本で考え続けました。どうして、こんなにも飢餓がつづいているのか、どうして、飢餓は終わらないのか。そして、ひとつ、わかったことがあります。私たちに欠乏しているのは、愛、そしてパートナーシップです。科学はこんなに進んでいる、それなのになぜ、一切れのパンを隣人に分け与えることができないのか、こんなにも発達した社会において、なぜ子どもたちが死んでいくのか。それは、私たちの心が、飢えているからであります。」

日本の報告の後、ほかの国の参加者から質問が出た。
「心の飢餓というものを具体的に例示して下さい。」
日本YEHのコーディネーターが答えた。
「私たち自身です。」
そこで、オブザーバー参加の日本の大人の方が手を挙げた。中学の先生だった。彼は言った。
「日本の子どもたちは確かに心が飢えている。それは、今日ここに来ているYEHの子どもたちだってそうです。でも、彼らはそれを克服しようとしています。遠くの国の飢餓を、自分たちの苦しみとして捉えています。」

このあとは、2日目にして大フィーバーのディスカッションとなった。どこの国の参加者も、一体感を持って発言を始めた。具体的な今後の活動をブレーンストーミングすることになった。途上国のメンバーは口々に言った。
「日本でもファンドレイジングは大変だということはよくわかった。今後は私たちも、自分たちのプロジェクトのために自国でもファンドレイジングをしよう。資金はすべて日本に頼るといった考え方はやめよう。」
何しろ矢継ぎ早に手があがる。議事録が取りきれない。ホワイトボードの書記も必要になり、翻訳に右往左往する。同時通訳も休む暇なくしゃべり続けなくてはならない。通訳というのは、疲れてくると(15分以上休まず一人でしゃべり続けると)本当に能率が下がってくるものらしい。訳にならなくなってくる。例えば、「ウォーターへのアクセスが大変困難で…サニタリープロジェクトのプロポーザルを緊急にリペアする必要があります。」といった感じになる。これではさっぱりわからない。特に今回は、例えばフランス語の発言は、スペイン−仏とスペイン−英の通訳がいないのでまず日仏の通訳が日本語に直し、それを日英の通訳が英語に、日−スペインの通訳がスペイン語にする、というなんともややこしいシステムだから、5人の通訳全員が、ほとんどひっきりなしにしゃべり続けている状態である。総プロジェクトにかかるコストを各国毎に読み上げるときなど、とても追っつかない。しかもセーファーフランやシリングなどをドルに通貨換算までしなくてはならず、スピードのつきすぎた会議はついに続行不可能になり、休憩に入った。30分のコーヒーブレイクの間に、各国それぞれ通貨換算をして模造紙に書いてもらう。これなら議事録を取らなくて大丈夫、あとで写せば、とほっとする。
通訳の方がそれを手伝ってくださって、コーヒーを飲みながら「こんな面白い会議は初めてだけどこんな忙しいのもまた初めてです」とおっしゃった。きっかり30分で作業が終わる。途上国タイムだなんて言わせないとばかりに、みな、きびきびしている。
最後に、明日の公開会議で採択する「アジズアベバ決議文」の文面について討議し、第4回目のGYCをどこで開催するかも話し合った。日本に決まった。日本で開催となるとお金が集めやすいこと、国連を呼ぶためということ、議長が日本人であること、などが理由だ。
会議のフィナーレにテーマソングを歌った後、ムセが“May Peace Prevail on Earth.”と言って、全員で復唱した。「地球が平和で覆われますように」という意味だ。「覆われる」ためには人々が点であってはならない、面でないと、とムセは言った。

ホテルに帰って味の薄い夕食を食べていると、ホテル側が「大サービスでエチオピアの伝統的なコーヒーのたて方を披露する」と言って、食堂いっぱいにお香を炊き始めた。それはどうしてもいい香りではなかったが、コーヒーセレモニーそのものはなんとも厳かで、雰囲気があった。出来上がったコーヒーはあまりに濃くて、豆ごと噛んでいるくらい苦かった。
夜は、さきほどの会議の模造紙をノートに書き写すことになっていた。書き込みは3ヶ国語にわたっている。私と、エチオピアメンバーのアビとで書き写していたのだが、2人ともフラ語とスペ語がさっぱりわからないので、アビと2人で模造紙を見て途方に暮れた。アビが、英語とフランス語の両方できるメンバーを呼んできて、彼がフラ語を英語に直し、私がそれをまた日本語に直してノートに書いた。これだけ終えると、日付が変わっていた。言葉は本当に大切だ。


つづく


        
 

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