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日本のNGO ♯6 
「食糧増産援助を問うネットワーク」調査通訳記 その2
2003.8.28
「その1」へ

「食糧増産援助を問うネットワーク(2KRネット)」の調査4日目にあたる今日は、NEDA(National Economic Development Authority、国家経済開発庁)とのミーティングに通訳として同行。NEDAのオフィスに向かう道中、昨日と一昨日(火曜と水曜)のフィールド視察の様子をきかせていただく。マニラ近郊でNAFCが実行している見返り資金プロジェクトサイトの視察と、2KR肥料の販売店の見学、2KR肥料を購入、使用している農村の見学、農民へのインタビューなどが行われた。場所はパンパンガ州とバタンガス州。タガログ語に自信のない私に代わって通訳として同行なさったのは、フィリピン大学の博士課程でフィリピン文学の研究をされている日本人のTさん。彼はなんとタガログ語の翻訳をなさるというのだから、英語とはいえ通訳など素人の私が彼と同じに雇っていただくというのは、かなり気が引ける。
2日間とも、朝から晩までNAFCの車を出してもらい、スタッフの同行のもとに現場に行ったという。かなり詰めたスケジュールだったのに、行く先々でしっかりと各地の名物などの豪華な食事(+おやつ)をいただき、さらにはお土産(たとえば葛の生産プロジェクトでは葛クッキーなど)までいただいたという。まるで、日本政府から視察団が来たかようなVIP待遇。

さて、NEDAは、2KRの見返り資金を使ったプロジェクトのうち半分を担当している。NAFCが農漁業を中心としているのに対して、NEDAはより「貧困削減」を重点目標としたプロジェクトを立案、実施、評価しているとのこと。たとえば、NAFCでは、昨日と一昨日の視察がバタンガス州などの「マニラ近郊」で可能だったように、マニラ近郊地区にもプロジェクトは存在する。しかしNEDAでは、プロジェクト供与の対象地域をあらかじめ「ビサヤ地域」「CAR(コルディレラ地域)」などと大きく絞り込み、マニラ近郊などのルソン中心部などははじめから対象としない。さらにその大きく分けた行政区内にあるNEDAの支部(リジョナル・オフィス)が、地区内でもっとも貧しいムニシパリティ(市町村)にのみプロジェクトの募集をかけるという。この「最も貧しいムニシパリティ」を決める基準となるのが「ムニシパリティ貧困レベル」というもので、1から6までの6つのレベルで、ムニパリティごとの「貧困度」が評価されているらしい。これは毎年見直される。

…と、なかなか私にとっても初めての話がたくさん聞けて、通訳としても非常に面白かった。

約2時間のミーティング終了後、NEDAの方々が、Iさんと私、そして同席していたNAFCのスタッフ4人を、昼食に招待してくださった。NEDAの建物にすぐ向かいにあるイタリアンレストランで、スパゲティをご馳走になった。
食事のあいだ、NEDAとNAFCのスタッフは終始にこやか(にぎやか?)で、冗談を言って笑い転げていた。entertain重視(詳しくはPilipinismoのページの「フィリピノ・タイムとは」を参照)の私もときどきタガログ語でそれに参加するため、いくら私が通訳をつけたとしても、どうしてもIさん一人が「静かな日本人」という構図になってしまう。「sagingはこっちに来て5ヶ月って言うけど、ほんとに愉快(jolly)で、まるでフィリピン人みたいね。Iさん、あなたもフィリピンに住めば、彼女みたいに愉快な人になれるのに。」と言われたIさんは答えに窮しておられた。いえ、私だって、ときどきは「努めて愉快にしている」ことだってあるのだけれど…。

さて、午後はNAFCの事務所に戻り、NAFCのスタッフと最後のミーティング。4日間の日程を終えての質疑や感想のシェアとディスカッションをして、必要な書類をいただいた。彼女たちはやはり、終始なごやかな雰囲気。

帰りには、なんとNAFCから「お土産」をいただいた。Iさんには、ブリキ製のジープニーの模型と箱入りドライマンゴー。「Iさん、あなたがスリに遭ったジープニーですよ。これで、あなたはずっとフィリピンを忘れないでしょう」というNAFCからのメッセージ。そして、私にまで、お弁当袋のプレゼントに「saging、食べるのが大好きなフィリピン人をずっと忘れず、ますますフィリピンに溶け込んでください」というメッセージ。すばらしいユーモアである。
(実はこのあと、火曜・水曜のタガログ語通訳を担当されたTさんのもとにも「ジープニーの模型」が届けられたという。)

政府視察団でもない私たちに対して、本当に至れり尽くせりのサービスであった。考えてみれば、それも当然かもしれない。いくらIさんが「2KRに批判的な」日本の市民団体からの視察であれども、日本からの15億円の2KRプロジェクトが彼らのNAFCという部署を支えてきたのは事実であろうし、もしも2KRへの批判が高まり、それが大幅に減らされた暁には、彼らは失職してしまうのだから。

Iさんは全日程を通して、終始「貧しい人々の税金を使っている政府からこんな接待を受けるのはよくない」「日本に帰ってこれを言ったらブーイングです」とおっしゃっていた。タガログ語通訳のTさんもそうおっしゃっていた。
それはまあ、日本の市民団体としては自然な考え方かもしれない。一日目の昼食でIさんが「2人分は払いますといってください。先方の政府機関の金でご馳走になったなんて言ったら、日本の人たちからブーイングです」とおっしゃったのも、私にはよくわかる。市民運動家の中には、そのように言う人々もいるのだろうな、と。
でも、私はそれには賛成しかねる。理由は…。

第一に、「ほんとうにNAFC(政府)は『貧しい人を犠牲に』しているのかどうか。このあたりの論理を、一部のNGOや運動家たちは巧妙にすりかえているように思う。総論的に、フィリピンの政府が公金を不正利用しているのは疑いのない事実であろうとも、それが果たして「貧しい人を犠牲に』していることになるのかどうか。
過度の接待--汚職や不正蓄財--税金が国民のために利用されていない
という一連のラインと、
日本の援助が本当に貧しい人に届いているのだろうか
という議論、それに
貧しい人々を犠牲にしている
という論理は、別の話である。
過度の接待が、税金に基づいたものであるというのはわかる。けれど、それとODAは別に関係ないだろう。仮に、2番目の「2KRの肥料が高すぎて貧しい人々の手に届かない」というのが事実であったとしても、だからといって、それが「貧しい人々を犠牲にしている」ことであるとはいえない。「役に立っていない(ゼロである)」とは言えるかも知れないが、「犠牲にしている(マイナスである)」とは言えないだろう。

第二に、貧困の原因がNAFCの職員にあるように責めるのはおかしい。私は何度か、こちらの都市貧困地区の住民組織が政府機関との協議を行う場に同席させていただいたが、政府側が出したミリエンダ(おやつ)や食事を、住民側も「おいしいですねえ」と言って食べている。協議の内容は、再定住先に水がないといったことだったり、もうすぐ立ち退きの危険性があるということだったり、けっして穏やかな内容ではないのだけれど、だからといって「政府の出した食事など食べない!」と言っている人は見たことがない。それは、政府の担当者だけを責めても仕方がないと思っているのかもしれないし、そのように敵対するよりも、現在のシステムの中で「協議」をしていこうという気持ちからなのかもしれないが…。

第三には、やはりフィリピンに来ているからには、こちらの人々のホスピタリティを重視すべきであると思う。客人に出させる、ましてやその人の分だけ出させる、などというのはフィリピンではあまり考えられないことだし、「恥」であり、そんなことはできない、と向こうがそういっているのであるから、それに従うべきである。

最後に、これはあまり論理的には自信のない意見だが、「貧しい人々を犠牲にした金で接待を受けるのは…」という考え方が、そもそも正義漢じみていておかしい。「貧しい人々を踏み台に」といえば、私たち日本の市民だってそうではないか。私はマルキシストでも世界システム論擁護者でもないけれど、先進国の私たちの生活自体が、途上国の人々の生活を(直接的にせよ、間接的にせよ)犠牲にして成り立っているものであるというのは打ち消しがたい事実である。「バナナと日本人(鶴見良行著)」を読んでバナナを食べるのをやめるのか。サッカーボールは児童労働によって作られているという1998年のユニセフのレポートを読んで、子供にサッカーをやめさせるのか。…バナナやサッカーボールだけではないだろう。一生バナナやサッカーボールやネパールのカーペットやチョコレートをやめられるのか。途上国の住民の立ち退きを伴った現地工場をもつすべての会社の製品をボイコットできるのか。できやしないのである。「アメリカボイコット運動」と同様に、そんなところで中途半端に正義漢になることなどできない。多かれ少なかれ、日本での暮らしは、いや、私のフィリピンでの暮らしも、「貧しい人々」の犠牲の上に成り立っている。それを無視して、「政府=悪、市民運動=善」といった公式の元に、「われわれ市民運動は現地の人々の立場に立っている」と思い込んで、政府の接待をまるで「汚いもの」のように見てしまうのはとてもおかしなことだと私は思う。

私の大好きなラピス&パペルさんのサイト「考えるノート」の「今日のひとこと」というコーナーの2003年6月13日(金)「援助 その共依存的側面(1)」に、管理人のラピス&パペルさんがフィリピン大学で学んでおられたときの、次のようなエピソードを書いておられた。お二人の担当教授のカリーナ・ダビット先生の授業で、
「あるNGOが多国籍企業の進出に起因する環境破壊や地域産業の衰退を憂慮し、その被害者である住民を支援する目的のプロジェクトに100万円規模の資金が必要だとして、そのNGO自身でそれをまかなう余裕がない場合、資金を提供してくれそうな団体や企業にその企画書を送る。ところがもし、そのプロジェクトに対する資金提供を、例えば、多国籍企業の冠たるコ〇・コーラ・ボトラーズなどが受け入れた場合、果たしてそのお金を使うことは良いことなのか」という問題が提示されたという。これに対して、多くのクラスメイトが、現在の世界のシステムで不当に利益を上げ、多くの犯罪を犯して来た多国籍企業などからの金は「Dirty Money(汚い金)」だと言い、ましてやそんな金を多国籍企業による環境破壊や地域産業の衰退に苦しむ住民を支援するプロジェクトには使えない、と言ったそうである。しかし担当教官の意見は違ったという。(以下、「考えるノート」からの引用)
彼女は、天下を巡っているお金を「このお金はクリーンなお金」「このお金は汚いお金」という具合に区別することはできない、と言った後で、少し気色ばんでこう言いました。
あいつら(多国籍企業やいわゆる先進諸国の政府や団体)は、お金を使いたがっているんだ。年にこれこれの額は「発展途上国」のために使わなくてはならない、という予算が組まれている。それを使って何が悪い。それに例えば、多国籍企業を批判する内容のプロジェクトでも、多国籍企業の方は金を出す。と言うのも、多国籍企業の予算全体からすれば、NGOなどに提供する資金など、微々たるもので、問題にも何にもならないからだ。


私はこれを読んだとき、どちらかというと、このカリーナ先生の言葉に共感を覚えてしまった。それは、上に書いたように、「政府=悪、市民運動=善といった公式」や、「われわれ市民運動は現地の人々の立場に立っている」「政府の接待は汚いもの」といった見方に疑問を覚える私にとって、「このお金はクリーンなお金」「このお金は汚いお金」という具合に区別することはできない」という彼女の言葉は、とても客観的で説得的に思われる。
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私が同行させていただいたのは2日間だけだが、全体を通して、NAFCでもNEDAでも、質問に対する応答がとてもわかりやすくきちんとしていたし、Iさんの要求する資料も逐一探しては公開してくれて、好感が持てた。「報告書を書いたらぜひ送ってください」と言うNAFCのスタッフにIさんは「NAFCにとって『いい内容』かどうかはわかりませんけれど」と答えておられたが、客観的に見て、あれなら別に、「NAFCにとって悪い内容」の報告書にはならないのじゃないかな、と思った。私は、これまでずっと2KRを調査して来られたIさんとは違って専門的な知識もないので、実際、Iさんの視点から見てどうなのかはわからない。
けれど、少なくとも私の視点からすれば、NAFCは2KRそのものの質の改善に真摯に取り組んでいるような証拠が見られたし、見返り資金を利用したプロジェクトについても、NAFCもNEDAも、詳細なガイドラインに基づき、オーナーシップ(※)を重視した計画を立てており、情報公開においてもとてもよい印象を受けた、ということをこの場では明記しておきたい。


「その3」へつづく


※オーナーシップとは、「自分(たち)のものである」という意識。単に上から与えられたものではなくて「自分たちのもの選んだ、自分たちのものである」と受益者の住民が感じること。たとえば、プロジェクトを国が丸ごと無償で行うのではなく、一部は地方自治体の負担にするとか、住民出資にする、などの方法で「オーナーシップ」の確保が目指される。


        
 

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