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コミュニティ・オーガナイジングとアクティビスタ ♯9
アクティビスタは語る フィリピン社会運動の歴史
2003.11.13(木)
今日は、待ちに待った「一大イベント」の日であった。私のお世話になりっぱなしのNGO"COM"のコミュニティ・オーガナイザーで、フィリピン大学のクラスメイトでもあるEが、私と、友人の日本人Sさんのために、あるレクチャーをしてくれたのである。名づけて"Political Meeting"…。

ことの発端は4〜5月。そのころは、COM(Community Organizers Multiversity)のオーガナイザーが関与している地域でエクスポージャー兼トレーニングをさせてもらっていた外国人が、私を含めても数名いた。P地区でフィールドワークをしていた日本人の私と香港人のAはベテランオーガナイザーのJからアドバイスを受け、ブラカン州で児童労働問題に携わっている日本人のSさんはEから指導を受け、そして、ラグナ湖の水質汚染問題に取り組む住民組織を観察した韓国人のMさんは同じくベテランオーガナイザーのBの案内でフィールドワークをしていた。そうして、私たちは1ヶ月に1回程度、COMのオフィスに集合して、Jたち担当者やほかのCOMのスタッフの同席のもと、報告と反省、そしてディスカッションを行うことになっていた。私はEやBとそこで知り合うことになったのだった。(詳しくはここを参照)
初期のころ、この会合で私は、
「私は1つのコミュニティの中でさまざまな団体がコミュニティ・オーガナイジングを手がけるという現象、とくに、政治的組織のオーガナイジングに関係に興味があります。」
と発言し、即座に、EとBの
「それは良い視点だ! でも…外国人には難しいだろうなぁ。」
というコメントを受けた。EもBも、かつては別々の左派系の政治組織で活発に運動をしてきたアクティビスト。自らの経験に誇りを持ちながらも、「フィリピン左派の分裂と内部闘争の継続に嫌気が差し、これでは社会変革はできないと思って」、Free Spirit(日本語にすると、"無党派"??)に転換し、COMに就職した二人である。互いに大親友らしき彼らは、口を揃えて言う。
「フィリピンのコミュニティ・オーガナイジングを理解するには、まず、フィリピンの社会運動の歴史を知る必要がある。」
そして、二人は、その外国人の集う会合のなかでぜひ、"Social Movement in the Philippines"というレクチャーの時間を設けようという提案をしてくれた。けれど、物理的な事情でその会合は流れに流れ、結局、そのレクチャーは実現されないままになってしまった。

一方、Eと私はフィリピン大学のカリト先生の授業のクラスメイトでもあったので、私は、Eのなみなみならぬ政治的関心の強さを毎週のように感じていた。Eはあまりおしゃべりなほうではなく、見たところ、クールに「スカしている」青年である。けれど、いったん議論になると、カリト先生に負けないディープなタガログ語を操り(カリト先生はバタアン州、Eはブラカン州の出身、いずれもディープ・タガログ語圏である。私はいまや、クラスメイトの発言はほぼ理解できるが、Eのタガログ語は半分くらいしか分からない!)、クラス中を静まりかえらせる発言をし、ロールプレイの発表やプレゼンテーションなどのグループワークではつねに強いリーダーシップを発揮する。自他共に認める「ある意味では優等生」の彼は、授業終了後のみんなのお楽しみであるinuman(フィリピン版飲み会)の席でもボソボソと政治的な発言を繰り返している。
また、彼の携帯のバッテリーの内側は油性ペンで真っ赤に塗られていて、外から見ても隙間がかすかに赤い。
"Pula sa loob, di ba?(ねえ、それ、内側が赤いよね?)"
と私が指摘すると、彼はにやりと笑って答える。
"Kasi pula sa loob ko, REVOLUTIONALY!(だって、僕の内面は赤いからね。革命的に!)"

「ねえねえ、Eってすごいアクティビスタね!」
「もしかして、CPP(フィリピン共産党)の出身じゃない?」
「実際に彼のおじいさんはPKP(フィリピン旧共産党)の幹部だったらしいよぉ」
…と、クラスメイトもひそひそと噂話をしている。

EのおじいさんがPKPの幹部だったという噂、そして、E自身がCPPの出身である、という噂は半分くらい当たっている。彼のおじいさんは、第二次世界大戦下で、抗日人民軍「フクバラハップ(Hukbalahap)」の幹部だった。PKPとフクバラハップは同一ではないが、フクバラハップはPKPによって設立された武装組織であり、地方農民組織に基盤を置いて、撤退した米軍に代わって抗日戦を繰り広げ、正規軍2万人、ゲリラ5万人を抱え、1945年までの3年間に約2万5千人の日本軍を殺したといわれている。Eのおじいさんも「日本軍をたくさん殺して表彰された」そうな。…一方で彼自身は、政治学を専攻していた学部生時代(1993年ころ)、左派の学生運動に傾倒。そのころは、すでにフィリピン左派は分裂を始めていた。彼は、まさに毛沢東主義を掲げるCPP(フィリピン共産党)系の"League of Philippino Students"に所属し、その後、CPPから分かれた修正主義のマニラ・リサール分派に移行、さらには同じ修正主義でも別の路線を掲げるシグラヤ分派に転向し、最終的にはそこも脱退した。
「まあ、どれも似たようなもんだから」と彼は言う。

11月から大学の後期がはじまり、Eと私はまた、カリト先生の授業でクラスメイトになった。
「saging、君はまた、どうしてわざわざ、この授業を聴講するんだ? 英語で講義してくれるほかの先生の授業を受ければいいだろう。」
とEは私に言う。私は負けじと
「E、あなたはカリト先生とシンクロできるんでしょう。あなたみたいな優等生は、わざわざこの授業で学ぶことなどないでしょうに」
と言い返す。Eは答える。
「先生はNational Democrats(マルコス政権下で誕生した社会運動の派閥の名称)だろう。だから、先生の話は僕にはとてもよくわかるんだ。僕がコミュニティ・オーガナイザーだからだというのじゃなくて、National Democratsの魂を持っているからね。先生が次に何を言おうとしているのか想像がついてしまう。でも、僕はあのクラスで学ぶことがないなんて思わないよ。クラスメイトが言うことはそれぞれ面白いし、それに対する先生のコメントも面白い。」
なんだかんだと言いながら、タガログ語が不自由で、フィリピンの社会運動に関する知識も欠けている私をそれとなく助けてくれるEは、心強いクラスメイトである。
「saging、君はどうも、フィリピン社会運動の歴史をわかっていない。いよいよ、待望のあの"Political Meeting"をしよう。テーマは、"Social Movement in the Philippines"だ。僕は木曜にも授業があるから、木曜の授業終了後はどうだ? 木曜の授業のクラスメイトも誘おう。彼らもきっと興味があるはずだから、同席させよう。」
……と、Eはなぜか自信満々で日程を設定。かくして、日本人のSさんと私は、木曜日にEの授業が終わるのを待って、彼らに合流した。

フィリピン大学からほど近い、私たちのお気に入りの「フィリピン版居酒屋」に入ると、Eはいそいそとペンとイエローペーパー(フィリピンでとてもよく使われる黄色い便箋のような紙。日本の「ルーズリーフ」にあたるようなもの)を取り出し、嬉々として
「タガログ語でやろうね、いいね?」
と言った。いつもクールに「スカしている」Eなのに、やたらと生き生きしている。同席しているクラスメイトたちは、なにごとかとこちらを見ながら、各自、別の話に花を咲かせていた。

フィリピンの社会運動の歴史をスペイン統治下における独立運動にさかのぼって語る、彼のレクチャーはすばらしかった。その内容は、また別の機会に書きたいと思う。特に、モスクワ派だった旧共産党のPKPとは別に、毛沢東路線を掲げた現共産党CPPが出てくるあたり、そして93年以降の左派の分裂については、彼は熱弁を振るった。
「つまり、彼らの掲げたPPW(持久的人民戦争)とは…」
と繰り返すEに対し、クラスメイトは「なんか、危険な話になってるねぇ」と遠くから冷やかした。

私は、参考になるかと思って、Newsbreak誌からコピーした、「フィリピン左派の分裂の樹形図」というのを持参していた。それを見せると、Eは
「おお、これがあると説明しやすいな。しかし、saging…、君はどこでこんな図をどこで手に入れたんだ」
と不審そうに言う。
「Newsbreakのバックナンバーをリサーチしてて見つけたの」
と答えると、
「saging、情報収集をするのは良いことだけど、こういうことって、紙の上だけで論じても仕方がないんだ。肝心なのは、コミュニティ・オーガナイジングの現場に、社会運動のこうした分裂が反映されてしまっていることだろう。つまり、フィリピン社会運動を担っているのはアクティビスタたちだけではなくて、貧しい"人々"だということだろう。それは、紙の上でのこんな図ではわからないことなんだよ。大切なのは"人々"自身に話を聞いて、sagingが考えることだろう。でもまあ、sagingも僕と同じ政治学の出身だからなぁ。」
と、またブツブツとつぶやかれてしまった。
「ねえE、この図で言うと、あなたはどこにいたの?」
「ここから、ここに移って、そして、やっぱり満たされない思いで、free spiritに転じたんだ。」
Eはうれしそうに答える。
「学生時代は武装組織で訓練を受けた。銃の使い方も学んだよ。なんといっても、うちのおじいさんは、日本人を何人も殺したんだからね」
と言ってにやりと笑う彼は、自信に満ち溢れていて、心底うれしそうだ。
「学生運動時代の友人の中には、いまもCPPで活動している人もいる。いまでも山にいる(地下活動をしている)よ。あのとき、分裂とともに仲間は散らばったから、いまや、どこの派閥にも昔の友人がいるんだ。それに、僕は政治学専攻だったから、フラタニティ関係の付き合いもあるんだ(※)。君は外国人だから分からないだろうね。いや、フィリピン人だってわからないよ。運動の内部にいる人か、この世界とつながりを持っている人でないとね。でも、本当にコミュニティ・オーガナイジングを学びたいなら、こういう背景を知ろうとすることは必要だよ。」

レクチャーのお礼に、Eには日本の「おかき」をプレゼントした。そうして別れたあと、Eからこんなテキスト・メッセージをもらった。
「今夜は楽しかったか? 第二段もやろう。次のテーマは"Ano ang tignan mo sa CO situationg ngayon?(今日のコミュニティ・オーガナイジングの状況を君はどう見るか)"だ。」
うーん、テーマまで決まっているとは…。彼はきっと、本当に、話していて楽しいのだと思う。自分が「アクティビスト」であった過去は、いまでも彼の誇りなのだろう。


※フラタニティ(fraternity)とは、もともとはアメリカの大学内の社交クラブ(友愛会)。フィリピンでも、特に法学部で、「アルムナイ(同窓)」と同様かそれ以上に重要な意味を持つ。特に政界や法曹界では、同じフラタニティの出身者どうしは互いに優遇しあったり、就職や昇進の便宜を図ったりする。たとえばフィリピン大学内の「シグマ・アルファ」や「ベータ・エプシロン」、「シグマ・ロー」、「アルファ・フィ・オメガ」などは有名である。フラタニティには誰でも入れるというものではなく、新入生がフラタニティに加入するには厳しい審査の壁があるという。なお、フィリピン大学ではフラタニティ同士の闘争で傷害事件が何度も起こっており、最近になって大学は、フラタニティの「溜まり場」とされていたPalma Hall横のベンチや「あずまや」を撤去した。フィリピン大学のフラタニティ闘争に関しては、2000年5月にRicargo Zarco教授らによってまとめられた調査報告書"Report on Student Organization Conflicts University of the Philippines, Diliman 1991-1998"に詳しい。どのフラタニティとどのフラタニティが頻繁に抗争したのか、どんな武器が使われたか、それぞれの活動場所などの表データも豊富で、こんな調査があったのかと驚かされる。
なお、政治学専攻のEがフラタニティを気にしていた、というのは、フィリピンの場合、法学を学びたい場合にはまず学部で政治学を専攻し、4年後、ロースクールのような形で法学部に進学するシステムになっているからである。つまり、政治学を専攻する学生は、法曹界に進むべく勉強する資格があるのである。フィリピンで「専攻はPolitical Scienceです」と言うと必ず、「法律家になりたいの?」と聞かれるのはそのせいである。


        
 

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